地域デザインをめぐって vol.32

修士研究を振り返って:奥澤理恵子

奥澤理恵子さんの修士研究振り返りは、COVID-19の影響もあり、対談ではなく、本人の文章でお送りします。学部4年の浪江町との関わりや修士1年からの南相馬市小高区での濃厚な研究・実践活動を経て、原発事故被災地域、移住者、交流の場、という限定されたテーマだからこそ、ここまでの内容を深められたと、側でみていて強く感じています(窪田亜矢)。

1) このテーマにした経緯、どう選んだか、

修士に入った当初は、卒業設計で対象にした津波被災地、特に平野部や「町」に着目して研究を続けようかな、とも思っていたものの、なかなか調査に踏み出せなかったり、多少調べているうちに当初のテーマに限界を感じていた。

プロジェクトでかかわり始めた小高、学部4年で訪れていた浪江町、と、原発被災地、という地域にも関心を持ち始めていたこともあり、徐々に、深くかかわりうる小高で研究をしようかな、と考えていた。(プロジェクトと研究対象地が重なればより深く知ること、考えることが出来るなぁともぼんやりと考えていた)

その中でも移住者にたどり着いたのは、3つの考えやいきさつがある。
ひとつには、プロジェクトでの活動、特にまちなかでの活動では、小高に移住して町にかかわる方とのかかわりが徐々に増えていたこと、そして居住と、自分のような通いながら地域とのかかわりを持つ距離感や、考え方は、どのように違うのだろう、とふと感じたことが最初のきっかけだったと思う。小さな小さな町、月に数日程度通う私たちでも、たまに昼時には知っている方に出くわすこともあって、都市以上に「住む」「生活する」ことが地域での関係性づくりや活動に寄与しているのでは、と改めて感じた。移住、という決断の中に、どのような背景や考えがあるのだろうと、かかわりながら考えていた。
そして、次に、移住、という新たな環境で生存するのに一般的にも障壁があるであろう出来事を、避難された方などが自分の家に暮らすのさえ迷いや困難のあるこの地域で、どのように実現させているのか、そこに何らかの困難はなかったのか、ということも同時に疑問に思っていた。(ただ、これは逆に新たに暮らすからこそ「帰還」にあるハードルが「移住」には伴わない、ということもインタビューの中で垣間見られた)

これらに加えて、そもそもこんなにも新たにこの地域に居住する人がいるのに、すなわち地域としての総体はその分変化しているはずなのに、人口回復率を「帰還率」、「帰還」という言葉でくくり、不可逆な変化を経ているのにもなお復興、という実態のない、何かが元に戻るとか、それ以上のことを起こそうとしている言葉で示そうとしていることに徐々に違和感を覚えるようになってきていたということも、長くプロジェクトでかかわり、移住、という新たな要素に改めて着目するようになる背景として自分の中で考えていたと思う。
実際に住んでいる人やその様子、そこにある社会を一側面とはいえ知る身として、知っていることを示す、主張する、ということが出来ないか、と考えたことも、テーマを定めにくいこの地域で、移住や、交流空間、という人が交流を持てた空間に着目しようとしたことにつながったと思う。……

2) 論文に書けなかったけれど、大事だと感じたこと

小高で見たこと聞いたこと、感じたこと、すべてが大事だと思っているし、論文に書けない社会とのかかわり方、素朴な暮らし(といっていいのか、わからないが)を学んだなと思っていて、逆にその中でどれだけが論文に落とせたのかわからない……特に二つ、あげておきたい。

書こうとしたものの伝えきれたのかわからないことは、移住者がくる以前にあった小高での町の人の、よそ者も受け入れて町を取り戻そう、来る人や資源には手伝ってもらいながら、とにかくゼロになったのだから何でもやってみよう、というような雰囲気であったり、ここまでのやるせなさや辛さや悲しみ、、のような、痛みを経ているからこその前を向く強さ、その中で地域社会の中でやれることをやろうとするひとりひとりの力、といったことが、震災後のこの地域の土台でありある種の人を惹きつける要素となっていたこと。(もちろん、ここには明るい背景だけではない)
そしてその深い深い背景には、災害によらず小高という土地に積み重ねられてきた文化や風土、リテラシー、価値や論理のようなものがあり、空間計画がそこで果たせないことも多いのでは、、と思った。でも、そうやって「元々ある資源」というだけではなくって、そんななかでも無意識的に行われている、空間の作り方や使い方、それを継承すること、といったことは空間の規範として言語化できるものだったのかもしれない、と改めて思ったりもしている。

もうひとつは、恐らく論文では書けなかったいないと思うが、原発被災地域における被災は長期的に被害が続いているというとらえがたい状況も、改めて向き合う中で感じた。
避難や目に見えない放射能汚染に対する対処など、災害や事故が発生したそのときは、大きく生活や環境の変わる始まりに過ぎなかったのだと、地域の方との話の中で徐々に感じてきた。
もちろんその中で徐々に回復していく環境がある一方で、住宅の荒廃や解体、家族の離散などはどう考えてもあの日を境に、徐々に進行してきた状況であるし、今もまだそれは途上ともいえるのかもしれない。
立ち入り可能時期と避難指示解除時期との間、という時期にも意味があったと、副題には被災から~年、という言葉を使ったが、被災後の9年の中に被害が進んでいく様と、回復に向かう状況とが同時並行的に起きていたのだということ、それらがグラデーションのように生じていたこれまでの時間であり、9年は経過した時間ではなく「震災後の社会」となった期間なのだと思う。
そういう「進行型」の被災は、あまり経験のない、想像のつかないものだったのかもしれないなと思うけれど(公害や疫病もその類かもしれない)、何度も何度も話を聞く機会があるなかで、実感を持ってこう感じるようになってきたのは論文をまとめる最中のここ最近のことだったかもしれない、と感じている。

3) 研究というプロセスで、自分でやれてよかったこと、できなかったこと

インタビューでじっくりとおひとりおひとりに話を伺い、丁寧に事実と向き合えたこと、とにかく、行政区長さんや移住者の方、行政の方、あるいはたまたま旅館で出会った方など、多くの方の話を聞けたことはできてよかった。

特に、互いに一度こっきりの付き合いではない方も多く、そういった方々から日常に近いところで、あるいは「インタビュー向け」のよそ行きのではない応答を多少なりとも聞けたかな、と思うタイミングは何度もあり、そういう調査をさせていただけたことはよかった、と思う。それも、プロジェクトを通じたこれまでのこの地域での蓄積に大きく依るものだったと思うので、自分自身のがんばりもそうだけれど周りの方々などのおかげだなと何度も痛感しました。

一方で、論理的に整理することができたのか、もう少し明快に組み立てられたのではないか…ということは正直わからない。ギリギリまで調査をしていたがゆえにきちんと論理だてる、ということを意識し始めたのは終盤だったような気もする、、、。

一つ、この数年を経てできなかったなと強く思っていることは、場の復興、地域の再生という観点に立つ、としたことで、生活再建、生活者の復興の方に視点を当てられらなかった、ということ。
通いや土地や空き家などの不動産、生活の営みの課題など、知る機会はあり、課題意識はあったものの、真正面から向き合うことは出来なかった。思えば卒業研究の時も、同じように生活する人の立場からの復興ではなく場や空間の再生を考えていたけれど、復興に伴い目を向けるべき、見逃されがちだと思う生活の回復、は、被災地域を訪れたり、話を伺ったりするなかで目を向けなければ、、
一つを選べば他の多数は扱えないのは当たり前なのだが、被災と避難、その中での経験といった部分など、被災地研究らしく伺う機会は少なかったのかもしれない。(日常会話やたまたまふとしたときに伺うことは格段にあって、調査として深く、あるいは焦点を絞って伺っていないというだけで地域にあるいたみのようなものには多少なりとも触れていただろうと思う)
復興、という言葉で示すことに違和感を覚え、それでも「元に戻す」わけではないので復旧でもないし、と思い、回復 : recovery、という言葉を度々使ってはいたものの、この状況をどのように言語化すべきなのか、というところには、最後もうすこしこだわって考えるべきだったのかもしれないな、とも思っています。

最後に、

人と人とが集まること、そこで生まれる小さなかかわりや交流、営みの表出が地域や町を再生する手掛かりになる、といったようなことを考えてきたにもかかわらず、疫病には隔離や社会的距離の確保が必要とされ、集まる、かかわる、という連帯の端緒やそれを支える空間という考えさえもここには無力なのでは、と、複雑な思いを感じています(そしてこの苦難を超えた社会でももしかしたらこれが通用しないのかもしれない、という不安さえもある)
大きなパラダイムの変化にまた立ち会っていると自覚しながら、これまでの社会で得られたことを次にどうつなげるのか、考え続けていけたらと思っています。

夕焼けの中に見える灯りに、町の気配を感じるな、と思った瞬間。