地域デザインをめぐって vol.30 “五木,椎葉,十津川”

僕たちはどう生きるか

森崎

2019年11月19日から23日と12月1日から3日にかけて,修士論文の調査で熊本県五木村と宮崎県椎葉村及び奈良県十津川村を訪れた.僕の修論のテーマとして「これからの農山村の良い住み継ぎ方」という問いがあるため,古くからの伝統文化が色濃く受け継がれている(と僕が考える)上記の3村を訪問し,関係者にお話を伺った.一学生の僕に対して優しく接してくださる方ばかりだった.この場を借りてお礼申し上げます.
●目次
1.子守唄の里 五木村
2.五木村の幸せを支える会社 日添
3.日本三大秘境 椎葉村
4.生きるための業
5.優れた復興を遂げた 十津川村
6.地域内二拠点居住という選択肢
7.僕たちはどう生きるか

1.子守唄の里 五木村
まず初めに向かったのは熊本県五木村である.五木村は「五木の子守唄」でも知られる通り,歴史的には貧しい村だった.


▲五木の子守唄を題材にした彫刻

この子守唄は赤子をあやすために歌うのではなく,赤子を背負っている子守娘が自分の気持ちを歌ったものである.現在の五木村は貧しいということはないが,人口は熊本県内で最も少ない1000人余りで,高齢化率は50%近い過疎に直面している村である.

また五木村を語る上で外せないのが,川辺川ダムの計画である.球磨川流域の人吉市などで1963年から3年連続で大水害が起きたのを理由として,支流の河辺川にダムを建設する計画が1966年に国により決定された.ダムにより中心地が水没する五木村は当初反対したが,国や県による要請により1996年に本体工事に同意し,それにより同年から頭地代替地が建設され始めた.移転を機に対象世帯の7割以上が村を出て行ってしまったことも,上に書いたように限界集落化している一因である.

しかし,蒲島県知事が2008年に計画の白紙撤回を表明し,後に民主党政権が八ッ場ダムとともに計画の中止方針を打ち出した.そのため,村の中心部は文字通り宙に浮いたように高台に存在しており,初めて訪れると違和感を感じるかもしれない.


▲頭地地区へつながる橋 その高さが分かる

ダム建設計画による負の面ばかりを強調しすぎたかもしれないが,もちろんプラスの面もある.前述したようにダムに沈む予定であったため,村は高台に存在する.従って村へつながる橋も高い.その高さを存分に活かしたバンジージャンプが行われている.


▲バンジーでぶら下がっているのが僕である

人口が1000人と少なく,内需だけでは経済が回らないため,村は観光に力を入れている.他にも村の中心産業である林業を活性化するために,五木村産の材木を自然乾燥させて利用する「五木源(ごきげん)住宅」というブランドも展開されている.これは2016年の熊本地震の際に,くまもと型復興住宅として採用された.

2.五木村の幸せを支える会社 日添
では,なぜ五木村を訪れたか.率直に言うと,すごく魅力的な人がいたからである.五木村出身の土屋さんは,大学卒業後3年間全国のまちづくりをサポートするNPOで働いた後,同じくまちづくりを生業とする日野さんと共に五木村に戻って来られた.そして設立されたのが株式会社日添である.


▲日添HPのスクリーンショットhttps://hizoe.co.jpより

「1000人の しあわせが、はじまり。」とあるように,村に寄り添った事業を展開されている.土屋さん曰く「村民の収入を月5万円増やすことが理想像」と,現在村民の方々が趣味等で行われていることを副業のような形にすることを最終的には目指されている.

例えば,丸太をくり抜いて作られる蜂箱の「はちうと」を利用した蜂蜜作りがある.野生のニホンミツバチが色々な花から集める蜜は「百花蜜」と呼ばれ,すっきりとした甘味がとても美味しく,市場価値も高い.このような地域に根ざす技,文化を残していきたいとのことである.


▲はちうとの写真https://hizoe.co.jpより

ただし,文化を全て残していく必要があるかと言うと,それもまた違い,「無理に残すのは誰も幸せにならない.残すとしても別の形を探っていく必要がある」とのことだった.蜂蜜作りの場合,楽しいから無理せずとも続けていけるようである.

また日野さん曰く「五木は少ない世帯でも生きていける地域」であり,実際に1,2世帯しかない集落が10くらいあるとのことである.棚田集落とは違い,五木村では個人で完結する事業を行なっているため,個人が残りたいと思えば残れる環境にあるらしい.集落にはそれぞれにプライドがあるため,集落同士の合併というのは考えられないようである.しかし生活には問題がなくても,ある程度人数を必要とする地域の祭りは存続ができない状況になってきている.村民の方々はそのことに寂しさを感じつつも,職がないため自分の子供たちに「帰ってこい」とは言えず,祭りの縮小には打つ手がないのが現状とのことだった.


▲途絶えつつある太鼓踊り 五木村HPより

僕の修論での興味が「これからの農山村の良い住み継ぎ方」であることは先に述べたが,ライフワークとしての目標は「地元の活性化に携わること」であるため,大変興味深いヒアリングだった.起業も視野に入れている僕にとってロールモデルとなるようなお二方に話を伺うことができて興奮すると共に,地域で働く,地域を元気にするということはとても険しい道のりだとヒシヒシと感じた.例えば都市で働いている人から見ると,五木村のような小さな経済圏で働く人はどこか牧歌的に感じるかもしれない.しかし経済圏の規模の違いによる課題が異なるだけで,歯を食いしばってやっているという面では同じである.いや,むしろ自分で課題を設定して解決していかなければいけない分,都市よりも生き抜くのは大変なのかもしれない.そのような所感を得て,次の目的地である椎葉村に向かった.


▲日添が運営するカフェみなもと 次はランチをいただきたい

3.日本三大秘境 椎葉村
白川郷,祖谷渓,椎葉村からなる日本三大秘境であるが,この中でも群を抜いて「秘境」なのが椎葉村だと個人的には思う.白川郷には大型観光バスでの団体ツアーが大勢訪れており,祖谷渓には列車が存在し観光客も多い.しかし椎葉村は基本的に車しかアクセス手段がなく,普通車がギリギリ離合できるくらいの山道が主である.


▲椎葉村へ行く道 まさに秘境

そんな秘境,椎葉村には「鶴富姫伝説」という代々伝わる伝説がある.壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党が追っ手を逃れてたどり着いたのが椎葉だった.だが,この山深い秘境も頼朝に見つかってしまい,那須大八郎宗久が追討の命を受けやって来る.しかし百姓になり質素に暮らす平家を見た大八郎は頼朝に「平家は征伐した」と嘘の報告をして,椎葉で暮らし始めた.そこで平清盛の末孫と言われる鶴富姫と恋仲になり子を授かった折に,鎌倉に呼び戻されてしまう.大八郎は「子供が男の子だったら下野国まで連れてこい.女の子だったらこの村で幸せに暮らせ」と言い残して,鎌倉へ旅立ってしまった.生まれたのは可愛い女の子だったため村で大事に育てられた.それでも大八郎のことを忘れられなかった鶴富姫は熊野に左遷された大八郎の元へ行こうとしたが,その旅路の厳しさに現在の奈良県野迫川村の地で息絶えてしまう.これが野迫川村では「鶴姫伝説」として語り継がれている.


▲那須野大八郎宗久と鶴富姫の像

また,椎葉村は柳田國男が「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を記した「民俗学発祥の地」としても知られる.現在でも焼畑や神楽,ひえつき節などの古くからの文化が色濃く残っている.神楽は現在26集落で現存し,国の重要無形民俗文化財に指定されている.焼畑は「高千穂郷・椎葉山地域」として世界農業遺産に登録されている.さらに十根川集落は重要伝統的建造物群保存地区に指定されている.このように椎葉村は文化の宝庫である.


▲しっとりとした雰囲気の十根川集落 椎葉村HPより

4.生きるための業
そんな文化の宝庫である椎葉村を研究対象としたいと思ったきっかけは「地域文化を丁寧に継承していくことが,都市の経済合理性の論理に対抗できる持続可能性を高める手段となり得ないだろうか」と漠然と思ったことである.例えば焼畑は生産性だけで見ると水田に劣る.しかし山を定期的に焼き,穀物を栽培し,また山に戻すというプロセスを繰り返すことで,山がずっと元気でいられるのである.人の管理が行き届いているため,山崩れなども比較的起こりにくいと考えられる.

現在焼畑を行っているのは,民宿焼畑を営む椎葉勝さんの1軒のみである.昔は多くの山で焼畑が行われていたらしいが,水道技術の発達や杉や檜の造林推奨によって,水田や人工林に変わっていった.そのため今となっては,やり方を知る人がほとんどいない貴重な文化となってしまったのである.


▲今は貴重な焼畑 『椎葉村尾向 秘境の歳月』より

全国的に有名な椎葉神楽はもともと88ある集落それぞれで行われていたと思われるが,昭和57年の調査時点で26集落で現存していた.しかし高齢化と人口減少により,今年の開催が決定しているのは16集落で,すでに5集落で中止が決定している.


▲減り続けている椎葉神楽の分布図 椎葉村HPより

椎葉の神楽は夜神楽といって,一晩中舞い続ける非常にタフなものである.僕も11月22日18時から23日10時にかけて行われた栂尾神楽を見学したが,夜中0時から5時にかけて眠ってしまった.しかし高齢化著しいはずの地元の方々は皆元気で焼酎を片手に初めから終わりまで「せり歌」という即興の掛け声をかけながら楽しまれていた.


▲祝子は16時間舞い,見物客は16時間飲み交わす

この栂尾地区は現在16世帯が暮らしておられるが,70,80代が最も多いらしく,住民のみでは神楽を継承していけない状況にあると聞いた.そこで,この日のために東京などから帰ってきたり,地域おこし協力隊の方が参加するなどして続けておられるようだ.実際に神楽を見学していた栂尾出身の方と話をしたところ,東京から神楽を見るために帰省されておられた.その方が村にいた時(40年弱前)は80世帯程度あったそうなので,人口減少の激しさが分かる.しかし昔は住民だけのものであった神楽に外部の人間が参加するようになり,16世帯しかいない地区に100人以上の見物客が訪れるようになってきたことは,文化の新たな継承の仕方であるように感じた.

上で登場した地域おこし協力隊であるが,椎葉村では現在10名の方が活動している.4年前から制度の活用が始まったため,定住人口に結びついている人数はまだ少ないが,現在活動されている協力隊の方々は皆定住する意向があるとのことだった.


▲現在10人の方が活動している 「協力隊だより2019年4月号」より

サテライトオフィスで有名な徳島県神山町は,地域での雇用が難しいため仕事を自分で作れる移住者を求めた結果として現在の成功事例に結びついたと聞くが,椎葉村も地域おこし協力隊の方々には新たな産業を求められているように感じた.先に登場した椎葉勝さんは「地域の資源を活かして新しい産業を起こしてほしい.そうすれば地域の高齢者もついていける」とおっしゃっていた.なかなか難しい注文だと思うが,確かに大事な視点である.僕の問題意識も「都市の論理を田舎に無理やり持ち込むのは何か違うのではないか」という点があるため,「地域資源を活かす」「地域の人が付いていける」という観点は大事にしたい.そこまで考えて一旦,大都会東京への帰途についた.

5.優れた復興を遂げた 十津川村
九州から帰京し1週間の日常を経た後に十津川村を訪れた.十津川村は東京23区と同じくらいの広さの奈良県最南端の村である.この村も秘境と呼ばれ,最寄り(?)の駅,大和八木駅からバスで3時間ほどかかる.ちなみにこのバス路線は奈良県の大和八木駅から和歌山県の新宮駅を結ぶ日本一長い路線である.


▲路線が長いので3度ほど休憩を挟む

また「熊野参詣道小辺路」「大峯奥駈道」という2つの世界遺産が村内にある.両方とも熊野に続く修験道であるが,前者は生活道も兼ねていたため,沿道に集落が存在する.


▲果無集落にて 本当に「果て」が無い

観光的にも優れた資源を持つ十津川村であるが,建築・都市計画界隈ではその復興プロセスで全国的に有名である.日本人なら誰もが忘れられないであろう2011年の東日本大震災に隠されてしまい,あまり注目されていないきらいがあるが,同年9月に十津川村をはじめとした紀伊半島も未曾有の豪雨災害に見舞われ,十津川村でも6名の方が亡くなられている.


▲写真真ん中の沢が山頂から全て崩れたらしい

この大災害からの復興において,十津川村の特徴的な点が3点ある.1つ目は応急仮設住宅を木造で作ったということ.2つ目は仮設住宅から復興住宅の間に「復興モデル住宅」を建設したこと.3つ目は復興公営住宅を既存集落に差し込む形で建設したことだ.順に説明する.

まず仮設住宅を木造で作った理由は,村からの要望と資材確保の見通しにある.当初はプレハブ仮設が検討されていたが,プレハブ仮設を建設するための資材を運ぶ道が数カ所で寸断されてしまったため,必要な資材を用意することが難しい状況であった.また十津川村は山が多く,林業振興のためにも村内材を利用することが望まれた.そのため木造仮設住宅の建設に至ったのである.当時木造仮設住宅はあまり例がなかったが,東日本大震災の応急仮設住宅の一部で行われていたという情報を頼りに仕様等を決めていったらしい.


▲軒先が特徴的な木造仮設住宅 大須賀(2014)より

次に「復興モデル住宅」である.一般的な復興のスケジュールでは,仮設住宅を建設した後はすぐに復興住宅の建設が始められることが多い.それはもちろん仮設住宅というのはあくまでも仮設であって,一刻も早く恒久的に住める住宅を被災者の方に用意することが行政側のミッションだからである.しかし,十津川村ではここに「復興モデル住宅」を用意した.これには「住民の方に復興住宅での暮らしをイメージしてもらう」という思惑がある.その結果,被災した住民の方が生活再建のイメージを描きやすくなったことに加え,十津川らしい住宅というものが共有された.これにより自力再建の人も似たデザインの家を建てた事例もあるようである.


▲シックなデザインで気がふんだんに使用されている.住みたい

最後に復興公営住宅を差し込み型にしたことの意義について述べる.東日本大震災を始め多くの災害における公営住宅は,土地を造成して団地のように形成することが多い.そちらの方が設計が比較的容易で,安全な土地も作りやすいからである.しかし,急峻な山々に囲まれた十津川村において大規模に土地を造成することは非現実的であり,できたとしても従前のコミュニティとは隔絶されたものになってしまう.そのため既存の集落に,復興モデル住宅で得た「十津川らしい住宅」を差し込む形で公営住宅が建設されることになった.


▲どれが公営住宅かお分かりいただけるだろうか

このように復興のお手本の一つとされる十津川村である.

6.地域内二拠点居住という選択肢
前述したように十津川村の面積は23区と同じくらい広い.その広大な面積の中に7つの地区,55の大字,200の小字が存在し,三千余人が暮らしている.多くの集落が「限界集落」化し,車を運転出来なくなったり,介護が必要になったりした場合は村外に転出する人が多い状況だったようだ.そこで高齢者を元気なうちに地区の中心に移住させようと,「高森のいえ」が作られた.


▲軒でつながることで井戸端会議が起こりやすくなる

これは公営住宅であるが,持ち家を放棄しなくても住めるという画期的なもので,気軽に住んでもらうために家具も備え付けになっている.この家ができたことによって高齢者の方が暮らしやすさを得ただけでなく,それまで村外に流出していた介護保険金も地域内で循環させることができるようになった.また共同菜園や共用スペースを設けることで,入居者同士の交流が活性化される作りになっている.


▲丁寧に手入れされている菜園

今後,村内の他の6つの地区においても同様に「〇〇のいえ」が作られていく予定である.高森のいえはリーディングプロジェクトだったため新たに建設されたが,今後は空き家などの既存のストックを活用するようだ.

復興から高森のいえまで,十津川村がここまで先進的であれた一つの理由として,「村づくり委員会」の存在がある.これは村長をトップとして関係各課長らが集まり,プロジェクトについての進捗報告や議論をする場である.縦割りになりやすい行政であるが,プロジェクトベースで課を横つなぎにすることによって,より良いプロジェクトにすることが可能になる.高森のいえも施設課と福祉課の連携が肝である.このように複数の課が密接に連携することは他自治体ではあまり行われていないように思う.確かに課を越えて連携することは大きな労力が必要で難しいだろう.だがその分,連携した際の推進力は非常に大きいはずである.例えばコンパクトシティで有名な富山市では,福祉課の職員が福祉の観点からコンパクトシティを熱く語ることがあったと聞いた.「横つなぎ」が成功している自治体の必要条件なのではないか(あくまでも個人の意見である).


▲1階には図書館機能もある活気ある役場

これらの学びを得て,十津川村を後にし,熊野大社や伊勢神宮を経て,また東京へ戻ってきた.

7.僕たちはどう生きるか
さて,3つの山村を巡り,色々な視点から村づくりについて考えた.
五木村では地域で事業を起こす覚悟,集落を維持する難しさを学んだ.
椎葉村では地域で暮らすための生業,文化を継承する方法を感じた.
十津川村では災害をバネにした村づくり,横串の大切さを目の当たりにした.
また十津川村では都市プランナーの蓑原先生と滞在を共にし,深い教養と幅広い知見から今後の都市像,国土像を考えるヒントを頂いた.
それらを通して考えたことは,これからの日本において「地方の時代」は確実にやってくるということである.もっと正確に言うと,日本中が地方化するのではないかと思っている.
いわゆる都市というものは「開発」の連続である.田は住宅地になり,戸建住宅はマンションになり.マンションは商業施設が入る複合ビルになる.これらの流れは一方向で不可逆的である.いや,だった.今後の日本において東京や大阪などを除けば,これまで経てきたような不可逆的な開発は鈍化し,逆向きに遷移し始める.日本中で問題になってきている空き家の増加などがそれに当たる.
僕たちはこの「開発」の逆の動きを経験してきていないため,皆が頭を悩ませている.悩んだ末に手探りで一つの解を提示している地域が,成功事例として知られる事例になっている.海士町や上勝町,神山町などがそれに当たる.
僕たちはもっと,この「開発」の逆の行為を真剣に考えるべきである.蓑原先生の言葉を借りれば,都市を間引いて元の田などの状態に戻す「間戻(かんれい)」という概念を共有し,これからの地方像,ひいては日本の行く末を考えなければいけない時期に来ている.これを考えるということは即ち,自分の生き方を考えることである.自分は東京のような都市で生きたいのか,それともその他の農山村で生きたいのか,それを考えることから始まり,農山村だったらどこが良いのか,自分は何を重視して生きるのかと自分に深く問うていく.これらの問いは,個人的なもののように見えるが,実は社会全体に関する問いであると思う.
つまり,社会の行く末を真剣に考えるということは自分の生き方を考えるということであるし,自分の生き方を問うことは社会のあり方を問うことだと思う.これらの問いを行き来することが,これからの日本を生きる僕たちには必要なのではないか.あくまでも,未来は想像した範囲内にしか存在しない.今一度,深く自分の胸に問いかけたい.
僕たちはどう生きるか.

参考文献
大須賀芳雄「紀伊半島大水害からの復旧復興/集落再生を見据えた復興住宅の取り組み 奈良県十津川村」都市住宅学 No.87 pp.57-60 2014年