地域デザインをめぐって vol.27 “チェルノブイリ”

原発事故から三十余年が過ぎた チェルノブイリを訪ねて

益邑 明伸

 筆者は2017年11月末、ウクライナのキエフとチェルノブイリ原発事故の立入制限区域を訪れた。今回はその訪問を振り返りたい。
 筆者が所属する大学研究室では、福島第一原発から20km圏内の地域である南相馬市小高区の復興まちづくりのお手伝いを2014年からしている。2016年に避難指示の大半が解除されたが当面の人口が少ない中、小高に帰られた方、移住された方が安心して生活でき、かつて小高に住んでいた方も、小高となんらかの繋がりを持ち続けられるような地域づくりのお手伝いができればと思い活動している。そうした中、チェルノブイリの様子を自分の目で見たいと思っていた。
 ウクライナの北部、ベラルーシとの国境から10kmほどのところにチェルノブイリ原子力発電所がある。1986年4月26日、4号機が爆発し、大量の放射性物質が拡散する事故が発生した。事故から30余年、事故を経験した人々、人々が去った街、大地は、今どのようになっているのだろうか。

1 訪問の経緯

 初めにお断りしておくが、筆者はウクライナ或いはチェルノブイリ事故に詳しいわけではない。チェルノブイリ事故はソ連時代に発生し、汚染地域はソ連崩壊によりロシア、ウクライナ、ベラルーシの結局3国に跨ることとなった。現在は3国で汚染や被災者への対応も少しずつ異なり、また言語も似ているが異なる中、チェルノブイリ事故の全容を理解するのは複雑で容易ではない。事故後、現在に至るまで多くの本が日本でも書かれているが、十分に勉強できているとは言えないまま足を運んでいる。
 しかしながら、福島第一原発の被災地の復興まちづくりに関わる中で、以前からチェルノブイリの被災地の様子を自分の目で観察したいという思いがずっとあった。今回は日本のNPOが主催するチェルノブイリのスタディツアーに参加する機会をいただき、ウクライナを訪れることができた。このNPOは長年チェルノブイリ事故の被災地の支援活動をしているが、福島第一原発事故後、福島県南相馬市の支援活動も行っている。このNPOと共に活動している南相馬市小高区の方に誘われて参加させていただいた。小高区にお住まいの方3名を含む5名が参加し、NPOの方とウクライナ人通訳とともに、ウクライナに7日間滞在した。
 首都キエフ及びジトミール州の、NPOの支援先やNPOが実施しているウクライナと日本のクリスマスカード交換活動に参加している学校等に訪問し、事故を経験した方々、入院している子どもたちや学校の生徒、その保護者などと対話する機会があった。また立ち入りが制限されている区域も許可を受けて見学した。なお、原発の施設自体には入っていない。
 理解が不十分なところが多々あろうと思うが、現地で見聞きし感じたことを書き留めておきたい。チェルノブイリを訪れようと考えている方や現地の様子が気になる方の参考になればと思う。

2 チェルノブイリを巡る地理


▲ 地図1:キエフ州、ジトミール州の地図(青線は訪問ルート)

 ウクライナの首都キエフ(特別自治市)は、ウクライナの国土の中央よりやや北側にある人口290万人の都市である。ドニプル川がキエフ市を縦断しており、西岸に観光スポットである古くからの中心市街地がある。
 原発からおよそ30km圏内のウクライナ国内は立入禁止区域が設定されている。汚染度に応じており、円状ではない。立入禁止区域はさらにゾーン1〜3に分けられている。立入禁止区域の外側に、「保証された自主的移住ゾーン」、「放射線管理強化ゾーン」が設定されている。ベラルーシ側には「ポレーシェ国立放射線生態学保護区」が設定され、立ち入りが制限されているようだ。
 キエフより北100kmほどのところにチェルノブイリ市がある。現在は原発周辺の立入禁止区域内にあるが、原発作業員が多く暮らす街でもある。夕方に通過すると明かりがいくつも灯っていた。ガイドによると現在、夜間3,000人ほどが滞在しているという。
 チェルノブイリ市から更に北に、プリピャチ市がある。ここは1970年に、チェルノブイリ原発の建設と合わせて新しく創建された計画都市であった。ソ連の中では当時、先進的な都市の一つであった。事故直前の人口は13,414世帯、49,360人で、大半がチェルノブイリ原子力発電所の従業員とその家族だった。独身者や子どもも多く、市民の平均年齢は26歳と比較的若かった。現在は無人となっている。
 プリピャチの市街地からほど近く、南に4kmほどのところに、ドニプル川の貯水池に面して、チェルノブイリ原発が立つ。1986年の事故当時、1号炉から4号炉までが稼働しており、5号炉、6号炉を建設中だった。


▲ チェルノブイリ原発の新石棺を望む。記念撮影スポットだが空間線量1.0μSv/h程度ある。

 キエフ州の西にあるのがジトミール州である。スタディツアーを主催したNPOは主にジトミール州の各所を支援していたため、今回のスタディツアーでも、ジトミール州内のいくつかの街を訪れた。州都ジトミール市は人口27万人。最初の4泊はジトミール市内のホテルに泊まっていた。ジトミール市の北にオブルチ市、ナロジチ村がある。
 なお、歴史的経緯から、ウクライナ国土の東側にロシア系の人々が多く、東部は親ロシア、西部は親ヨーロッパの傾向があるという。ウクライナ南端のクリミア半島のクリミア自治共和国では、2014年にウクライナからの独立とロシアへの編入を目指すクリミア独立宣言が表明され、その後、事実上ロシアに編入された(ウクライナ政府、諸外国はクリミア共和国の独立およびロシアへの編入を認めていない)。ドネツィク州、ルハーンシク州でもこれに呼応し、ロシアへの編入を求める分離・独立派により、ウクライナからの独立が宣言され、戦争状態にある。一部地域でウクライナ政府の管轄が及んでいない。

3 ウクライナの人々

 今回のスタディツアーでは、多くのウクライナ人に事故時の自分の行動とその後の人生を語っていただいた。
 ジトミールの元消防局長は事故当時消防士として現場近くの消火活動、除染を行った。その後、次第に多くの消防士がガンや循環器系の疾患で亡くなる中、消防士のための基金を作り、消防署には祈念碑と展示室を設けた。プリピャチ市に住み原発関連の仕事をしていた女性は、新しいアパートに入居したばかりで原発事故が起き、苦労しながら原発から避難した。その後は他の原発で働いていたが体調が悪くなり、現在はジトミール近郊で暮らしている。プリピャチに引っ越してきたのは1976年だったが、当時は首都キエフよりも生活水準が高かったという。1986年に1度戻り娘の服などを持ち出したが、線量が高く結局写真などだけしか持ち帰れなかった。今の廃墟のプリピャチは見たくないという。作業員や軍人として直後に現場近くで作業し被爆した方々は、放射線量計が振り切れたり、きちんと測定されていなかったりする中、恐怖を感じながらそれぞれ作業に従事していた。彼らも自らの病と戦いながら作業員や障害者のための基金を作っている。


▲ ジトミールの消防署内の展示室。亡くなった消防士の写真も掲げられている。

 キエフでは、原発直近の先進都市プリピャチから首都キエフの団地に移住させられた方々の自主的な組織「ゼムリャキ(同郷会の意味)」を訪問した。それぞれプリピャチで被爆したのち、国が無料で提供するアパートで暮らしている。ある女性は、避難後は生活は落ち着かず大変だったが子どものために、できるだけ普通の生活を送るように頑張っていたという。キエフでは住宅供給に割り込む形になって、予定していた人々とは摩擦が生じ大変だったという。みな若者だったので、前向きに仕事をして、悩む暇がなかった。プリピャチに戻りたい気持ちはあるが、建て直しても、それは我々が住んでいたプリピャチではない。プリピャチは全ソ連から人が集まってできた将来の明るい街だった。ゼムリャキは避難してきた人々が互いに支え合い、ストレスを発散できる場であった。家族の死も乗り越えられたという。
 事故から31年が経ち、当時働き盛りだった人々は事故の恐怖、避難、移住の困難さを味わい、人によっては病いを抱えながら生活を続け、60代後半を迎えている。人生の大半を避難先で過ごすことになった彼らが故郷のことを語るのを聞くと、意気揚々としていた若者の人生を原発事故が大きく変えてしまったことを痛切に感じたとともに、故郷での平和な暮らしの記憶はかなり昔のものになり、故郷と現在の暮らしが非常に縁遠いものになってしまったことが伝わってくる。


▲ 保証された自主的移住ゾーンのナロジチ村

 一方、避難せず、元の土地に留まっている人もいる。ナロジチ村は「保証された自主的移住ゾーン」に含まれ、支援を受けながら移住することも留まることもできる。村は簡素な家と塀が連なり、草を運ぶ馬車やトラクターが行き交う。1990年からナロジチの幼稚園で先生をしている女性は、国からは他の町のアパートを提供されたが生まれ育ったところで両親とともに暮らしたかったのだという。移住していく人もいて人それぞれだという。娘が住む家を見せてもらった。中古物件を買い修復しながら住んでいる。家の真ん中にペチカ(暖房設備)があり、地下には食料の貯蔵庫がある、このあたりでは標準的なしつらえだという。村の幼稚園は、子どもも多く明るい。日本のODA等による物品も目についた。
 30年という月日が流れ、働き盛りだった人々が高齢者となっていくと同時に、事故当時子どもだった人々は親の世代になっていた。ジトミール市とオヴルチ市では学校を訪問し、授業参観や生徒や保護者とお話する機会があった。日本の小学生から高校生までに当たる年齢の子どもが一つの校舎で学んでいた。
 そこで保護者の子供のころの事故の記憶を聞けたのは貴重な機会だった。伺う前に読んだ多くの語りは大人の立場からの事故の記憶だったからだ。他の子どもと集団で避難した記憶、甲状腺検診の記憶、大学から帰ったら皆避難していて誰も居なかった記憶、両親が事故の事情をわかっていなかったという記憶…。ある保護者は、伝えづらいこともここで暮らす以上全部教えていると話していた。事故を知らぬ世代に汚染された土地で過ごすための知識を伝えていくことには、学校も意識的に取り組んでいるという。

4 立入禁止区域の見学

 ツアーのうち1日はチェルノブイリ原発周辺の立入禁止区域を見学した。天気は雨で冷えた。見学には事前の申請が必要で、検問から国営企業のガイドが必ず同伴し、案内することになっている。車で回りながらガイドの指示で所々で降りて見学する。訪れる場所はある程度ガイド次第で、その場で若干相談できるようだった。


▲ 地図2:チェルノブイリ原発周辺(青線は今回の見学ルート)

 立入禁止区域に入るための検問を通り、北上し原発を目指す。チェルノブイリ市の中心を通り抜けた。最初に訪れたコパチ村幼稚園はチェルノブイリの立入禁止区域の中で、定番スポットになっているようだ。何度も訪れている同行者によれば、以前より周囲の下草などが刈られ整えられ、空間線量もかなり下がっているという。屋外の雨水の集まる地点(高さ1m程度)で手持ちの線量計で2.2μSv/hだった。荒廃が進み、天井や床が所々抜けてきている。


▲ コパチ村幼稚園外観


▲ コパチ村幼稚園内部。朽ちた人形などは観光客が記念撮影のために持ち込んだものだという。

 次に訪れたのは建設途中で放置されることになった冷却塔であった。線量が下がり最近観光客でも立ち入れるようになったのだという。しかし上部にはコンクリートをうつ足場が当時のまま残され、所々落下しており、あまり安全とは言えない。写真にあるように壁に絵が描かれているが、これは落書きではなく政府が少しでもよく見せようと依頼して描かせたものだという。


▲ 建設途中で放置された冷却塔。事故当時あと2つの発電施設を建設中だった。


▲ 建設途中で放置された冷却塔内部。壁にマスクをする男性が描かれている。

 ゲートを通り、プリピャチ市の市街地に入る。建物がそのまま残された都市の廃墟が佇んでいた。


▲ 地図3:プリピャチ市街地周辺(青線は今回の見学ルート)

 市街地の外れに、水辺を見下ろすように建つカフェがある。内部にはステンドグラスが残っていた。


▲ 市街地の外れにあるおしゃれであっただろうカフェ。


▲ 家具などは持ち出されてしまったが、ステンドグラスが残る。

 大通りが交差する中央広場に来ると、広場であった場所に木々、雑草が伸びていた(しかし福島に比べれば雑草は低く疎ではある)。


▲ 木々が生えてしまっている中央広場

 先述の通り、プリピャチ市はソ連の中でも先進都市であった。中央広場を囲うようにホテル、劇場とプールなどの複合施設、レストランとスーパーマーケットの建物が建っている。


▲ 中央広場に面するスーパーマーケット。


▲ 窓ガラスがなくなり中が見通せるスーパーマーケット。ガイド曰く、ウクライナ初のスーパーマーケットだった。

 複合施設の裏には事故の5日後に開園予定だった遊園地があり、遊具や観覧車が残っている。ここにも政府が近年描かせた壁画(鹿などの野生動物)があった。


▲ 遊ばれることのなかった観覧車は事故の象徴として映像作品などでしばしば描かれる。

 プリピャチの市街地を出て、すぐ近くのジュピターという工場跡も見学した。ガイドによれば、テープレコーダー等の電気製品の他、密かにミサイル部品なども作っていたという(別のインタビュー記録にも、工場に勤めていた労働者の妻の言及がある。)。雨漏りの他、梁が落下しているが、ヘルメット等なしで訪れており、放射線リスク以外でも安全とは言えない。


▲ 工場の内部。梁が落ちている。

 見学に際して特に手袋や靴カバー等は必要とされない。立入禁止区域から出る際に全身の線量を測るゲートを通過しなければならないが、あまり厳密な測定がされていないように見えた。
 東浩紀編「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」ではウクライナ側の立入禁止区域内を観光という観点からレポートしているが、筆者らが訪れたときには東らが訪れた2014年に比べ、検問前のトイレが新設されていたり、おみやげ売り場が設置されていたり、観光化が更に進んでいることが見て取れた。一方、安全面については自己責任という印象を受けた。
 検問通過後、原発から10km圏内に入るまでは車内の空間線量は0.1μSv/h程度だった。原発作業員が夜間暮らしているチェルノブイリ市を過ぎると次第に線量が上がる。外を歩いたところでは概ね0.3〜0.4μSv/hほどだが、道を外れると局所的に高いところがある。線量計で測った中で線量が最も高かったホットスポットは地上1mで6μSv/hで、地面に近づければ10μSv/hを超えた。

5 終わりに

 現地で伺った話も立入禁止区域の風景も、とても端的にまとめられるようなものではないが、本稿の最後に、日本の状況と対照しながら振り返っておきたい。
 日本の現状と比べ異なると感じたことの1つは原発の是非であった。日本においては福島原発事故被害と他の原発稼働の議論はリンクして語られることが多いが、ウクライナでは事故について学んだり、汚染地での生活の仕方を学ぶことと、原発そのものの是非とは切り離されている。毎年事故の日にはテレビで事故について報道されるが反原発が大きな議論にはなっていないという。お会いした被害者でも、原発を肯定的に語る人の方がむしろ多数派だった。チェルノブイリ原発自体も事故を起こした4号機以外は稼働を続け、2000年3月にようやく全機が停止した。このことはエネルギーが不足しているこの地域のおかれる状況を示しているのだろうと思う。
 ジトミール州立小児病院で会った子どもたちは口々に「福島がよくなりますように、そして戦争が早く終わりますように」と述べていた。日本人たちは面食らったわけだが、2014年以来ウクライナはロシアと戦争状態にある。また以前からロシアからウクライナへの天然ガス供給を巡る紛争があった。エネルギーが不足するウクライナにおいて、国の発展のために原子力発電は欠かせないという認識が一般的のようである。また、事故の原因がもっぱら技術的なものと考えられている点も、新しい原発は安全と考える根拠になっているのだろう。
 一方で、日本においてもウクライナにおいても、原子力災害は多くの人々に長期避難、あるいは不本意な移住を強いている。汚染は完全には取り除くことができないが、少しづつ線量は下がっていく。しかし人が住めない、住みにくい状況(放射線のリスクはあることはわかっているが、前向きなこともあれば後ろ向きなこともある諸々の事情を踏まえて住むことを選ぶ状況、そこに住むなんらかのメリットと引き換えに、放射線リスクと付き合い続けなければいけない状況)が他の災害とは比べられないほど長期に続く。
 人々の話からも、立入禁止区域の見学からも、避難区域と人びとの暮らしが切り離されて久しいことを痛切に感じた。直後の放射線量が高くとても帰るという選択ができなかったことも関係しているであろう(サマショールと呼ばれる立入禁止区域への自主帰還者もいるが)。30年以上経ち、現在生きている人々にとっては、避難区域で暮らした記憶はかなり昔のものとなり、またその人生の大半を避難区域外で過ごしたことで、現在の暮らしと避難区域との繋がりは断絶され、どんどん薄れてきただろう。


▲ プリピャチの中央広場から見たレーニン大通り。背の高い木が増え、通り沿いの建物が見えなくなっている。

 その地での暮らしを記憶する人が減れば、チェルノブイリという地は、ウクライナの人々にとっても他の国の人々と同じく、廃炉と事故の跡の廃墟と汚染というだけの存在になってしまう。事故と汚染によって人命と暮らしが奪われたのだという本質はより伝わりづらくなるだろう。実際、立入禁止区域を訪れても、若いガイドの解説以外には以前の暮らしや現在の放射線量を知ることは難しく、前提知識や持参した線量計がなければ、単なる廃墟ツアーに近いものになってしまう。廃炉作業が続き、また放射能汚染は今なお存在し、立入禁止は長く続く中、伝える工夫と引き続き長期の監視が一層必要になる(伝える役割を担う国立チェルノブイリ博物館は残念ながら休館で訪問できなかった)。長期にわたる原子力災害への対応は、時間経過による変化への対応が担保されるような体制や制度であるべきなのだろう。
 立入禁止区域の外のオヴルチ市では、地元の政治家と立ち話する瞬間があったが、汚染地域のカテゴリを下げて企業を呼び込みたいという想いを語っていた。汚染への対応(健康管理、放射性物質の管理)と、そこで暮らしたい人のための地域の発展の両立は、日本でも課題である。
 教育や医療機関の対応など、放射能汚染に対する社会の受け止め方が成熟しているように見える(原発賛成を成熟と言っているわけではない)一方、インフラや一般の団地の暮らしぶりを見ると、現在のウクライナの国力の下ではチェルノブイリ法があっても十分な補償や支援ができないのではないかと感じた。最後に、今回お会いした方々は一部でしかなく、もっと深刻な状況があるかもしれないことは心に留めておきたい。

参考文献・資料
東浩紀編 『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1』ゲンロン, 2013年 →ガイドブックとしても有用だった。空間線量などは大きく変わっていない。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ, 松本妙子訳 『チェルノブイリの祈り』岩波書店, 1998年
黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中央公論新社, 2002年
川野徳幸, 今中哲二, 竹内高明編「チェルノブイリ・旧プリピャチ住民へのインタビュー記録」IPSHU研究報告シリーズ 研究報告No.46, 広島大学平和科学研究センター, 2012年, https://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/46/ipshu-46.pdf →2009年、2010年にゼムリャキのメンバーへのインタビューを行った記録。
馬場朝子, 尾松亮『原発事故 国家はどう責任を負ったか/ウクライナとチェルノブイリ法』東洋書店新社, 2016年