地域デザインをめぐって vol.25 “熊本地震の2年後”

復興過程の地方都市の中心から農村集落、観光のまちまでを辿って

伊藤 智洋 + 奥澤 理恵子 + 永門 航 + 新妻 直人 + 益邑 明伸

 2016年4月14日夜および4月16日未明に熊本県を震源とする最大震度7の地震が発生し、その後多くの余震が続きました。2018年7月3日〜4日に熊本地震の被災地を研究室の学生5名で訪れました。何度か訪れている学生もいれば、今回が初めての訪問の学生もいます。また熊本出身の学生も、東日本大震災の復興を研究している学生もいます。発災から2年余りを経た被災地を踏査し考えたことを綴ります。
●主な訪問先
熊本市(熊本城)、益城町(仮設住宅団地、区画整理事業区域周辺)、西原村、南阿蘇村、阿蘇市(仮設住宅団地、阿蘇神社)
●目次
1. 被災と復旧作業を見せる熊本城
2. 熊本の仮設住宅をめぐって
3. 熊本の仮設商店街
4. 阿蘇大橋の落橋現場を訪れて
5. 被災した集落をめぐって
6. 文化を残し、地域のよりどころ、神社、祠
7. 益城町の区画整理対象市街地を歩いて
※ 写真はどれもメンバーが撮影したものである(断りがない場合は2018年7月撮影)。

1. 被災と復旧作業を見せる熊本城


▲ 熊本城天守閣(2018年1月撮影)

熊本城は今回の地震で、現存石垣、文化財建造物、再建された大小天守などが被災した。大掛かりな天守閣の復旧作業は全国に報道されている。7月23日から石垣の積み直しが始まっている。
通町筋からの堂々たる姿を見ると、文化財としての価値だけでなく、名実ともに熊本のシンボルであることを痛感させられる。そのような意味もあってか、復旧作業を見せるためのルート設定や充実した説明パネルの設置など、復興ツーリズムにも注力しているようだった。雨が降る平日午前にも関わらず、多くの観光客が訪れていた。海外からの観光客も目についた。警備員の他、随所にガイドの方もいらっしゃって解説をしてもらえるが、入場料などは取っていない。


▲ 左:見学ルートを示すパネル/右:崩れたままの石垣

 2年前の被災直後には歩けなかったエリアも歩いたが、平時の見学ルートに巨石が落下しているのは改めて衝撃的であった。発災が夜間だったため、人的被害はなかったが、昼間だったら逃れようがなかっただろう(大阪北部地震での痛ましい出来事を連想せずにはいられない)。取るべき対策がすぐには見えないが、文化財としての石垣の保全と、観覧者の安全の確保の両立が全国の城跡で必要だろう。


▲ 左:フェンスで区切られた見学ルート。正面には説明パネルもある。/右:西大手櫓門・元太鼓櫓

2. 熊本の仮設住宅をめぐって

今回の熊本被災地見学では、益城町、南阿蘇村、阿蘇市、西原村と複数の仮設住宅団地をそれぞれ訪問し、見学した。

熊本地震における応急仮設住宅の概況と、今回訪問した応急仮設住宅の位置づけ

熊本地震に伴い、110団地・4,303戸の(建設型)応急仮設住宅が整備された。応急仮設住宅の入居期間は原則2年とされるが、被災から2年4ヶ月経過した現在も、2,931戸・7,230人が入居されている(2018.7.31現在)。

熊本地震では、仮設住宅の7割程度を「みなし仮設」が占めるのが特徴的である。直近の東日本大震災などと比較すると(建設型)応急仮設住宅が占める割合は高くない。とはいえ、広範囲にわたって多数の仮設住宅整備がなされたことには変わりない。今回訪問した仮設住宅団地について、自治体ごとに規模感と被災状況を、以下に整理する。

・益城町:1,562戸の仮設住宅団地が整備された。ベッドタウンで人口が多かった(町全体で3万人強)こともあり被害が大きく、熊本地震では最多の整備戸数となっている。中でも、(今回訪問した)「テクノ仮設団地」は、516戸と非常に大規模な仮設住宅団地である。市街地のはずれにある工業団地の中に整備されたため、居住地からは遠く、当初は入居辞退者も多数出たといいう。その分、居住者の方のQOLを担保できるよう、バス路線の乗り入れ・仮設店舗など、機能面での配慮が多くなされているように感じた。


▲ 益城町のテクノ仮設団地。工業団地の広い敷地に、大規模に整備された。

・南阿蘇村:401戸の仮設住宅団地が整備された。阿蘇大橋の落橋(後述)にも象徴されるように、土砂災害に伴う被害が多く見られた地域で、道路寸断により孤立した地区もあった。今回訪問した仮設住宅団地も含め、50戸以上の団地が複数配置された。また、隣接する大津町にある仮設住宅への、自治体を越えた入居も行われている。


▲ 南阿蘇村の長陽運動公園仮設団地。56戸が、運動公園の敷地内に整備された。

・西原村:312戸の仮設住宅団地が、1箇所にまとまって整備された。集落内の村有地は災害公営住宅の建設用地として確保しながら、公共施設の建設予定地に整備したという。益城町のテクノ仮設団地と同様に、大規模ゆえに仮設店舗やコミュニティ施設の整備が充実している印象である。


▲ 西原村の小森仮設団地。1箇所の敷地に312戸が、5地区に分けて整備された。

・阿蘇市:市全体で101戸の仮設住宅団地が整備された。地震そのものの被害により亡くなられた方はおられず、先述3自治体と比べると人的被害が大きくない地域ではあるといえよう。一方で、断層の周辺を中心に、地面に亀裂が入るなどした場所も多く、住宅や農産業が大きく被害を受けたようである。市全体での被害とはいえないためか、仮設住宅にお住まいの方々からすると、行政との間に距離感が感じられる部分もあるとのことだった。


▲ 阿蘇市の北塚団地。30戸の、木造仮設住宅団地である。

 同じ仮設住宅でも、木造かプレハブか、また一つの団地の規模や配置など、環境によって少しずつ異なる様子が見られ、2日間の短い時間の中だったが、いくつか見て回ることでそれぞれを比較しながら見ることができた。

仮設住宅の空間・コミュニティ・その使いこなし

外から仮設住宅を見学するなかで、隣棟間隔や開口部となる玄関・窓などのしつらえなどの外部空間の作り方に、団地同士での違いももちろん見られたが、東日本大震災での仮設住宅の様子に比べゆとりや細かい配慮が考えられていることが実際の空間としても感じられた(熊本地震の応急仮設住宅配置については伊東豊雄氏による検討が入ったという)。また、斜め屋根のある木造仮設住宅は平坦な屋根のものに比べ、恒久住宅地に近い雰囲気を感じ取ることができる。これらの空間設計における細かな工夫や配慮は、東日本大震災の経験や反省を踏まえたものと捉えることができる(今回の工夫を総称する「熊本型デフォルト仮設住宅」という言葉があるらしい)。

阿蘇市で訪れた仮設住宅では、たまたまいらした社会福祉協議会のスタッフの方、居住者の方とその中で支援員をされている方にお話を伺うこともできた。ここは木造での仮設住宅で、断熱性も高くあたたかいことや、天井が高く屋根裏のスペースがあることなど、木造ならではのよさを感じているとのことだった。また、仮設住宅では、それまでとは異なる新しいコミュニティのなかでの暮らしともなっているようだが、そのなかでも自治組織やイベントなどをもち、暮らしている方の力でよい環境を作り出そうとされていること、「自分も被災者だからできることだけ、大変でないように」とおっしゃりつつも、見守りやほどよい関係性づくりが行われていることがうかがい知れた。もちろん苦労されていることもたくさんあると思うが、暮らしている方々の力で社会的にも住みやすい環境がつくられている様は想像を上回っていて、驚いた部分もあった。

 熊本地震での応急仮設住宅には、戸数に応じて規格型みんなの家、住戸数の多い団地にはさらに加えて住民の方とのWSを通じて整備する、本格型みんなの家が整備されている。今回見学した団地でも、規模に応じたいくつものみんなの家を見られた。
先に出た阿蘇市の仮設住宅では、住民の方が日々のちょっとした利用をできるような管理方法がされており、みんなの家が身近な集会所として使われるよう、地域自治組織としての工夫も見られた。

▲ 西原村仮設住宅の本格型みんなの家。ガラス張りの奥に、子供にも利用されている様子が見られた。縁側もある。

 益城町の仮設住宅では、利用しない道路(工業団地内の私道?)の中にバスケットゴールとスケボー用のジャンプ台が置いてあった。どういった主体が設置したのかはわからなかったが、このように、仮設での生活が少しでも豊かなものになるような空間上の工夫も随所で見られたことが印象的であった。

3. 熊本の仮設商店街

東日本大震災で被災地を象徴する風景の一つとなった仮設商店街だが、熊本地震の被災地でも計6ヵ所の仮設商店街が公的支援の下、整備された(うち1ヵ所は2017年10月に閉鎖・撤去済み)。いずれも第3次産業の事業者による仮設店舗・仮設事務所によって構成されている。今回の訪問では、現存する5ヵ所を訪れた。


▲ 左:先述の仮設住宅団地「テクノ仮設住宅団地」の敷地内に「益城町テクノ笑店街7」はある。/右:スーパーマーケットが隣接して独自の仮設店舗で営業している(2016年9月〜)。


▲ 「いくばい益城笑店街」は益城町木山地区の区画整理事業区域内の県道沿いに立地している。


▲ 西原村小森地区の産業用仮設施設は、先述の西原村の仮設住宅団地の敷地内に整備されている。


▲ 南阿蘇村「復興マーケット 桜咲(さくさく)」は、道の駅「あそ望の郷くぎの」(写真右)の敷地内に一般建築物として整備。


▲ 内外装に力を入れている事業者が多い。

▲ 「復興マーケット ブルー・ビー」は、南阿蘇村の長陽運動公園に建てられた仮設住宅団地の敷地内に一般建築物として整備された。

 既に本設再開している事業者もいる一方、区画整理事業区域に立地していた事業者や道路の寸断により元の地区での営業が難しい事業者なども入居している。被災に加え観光客自体の減少が厳しい。

現存する5箇所を巡ったが、うち2箇所は空き区画などがあり、あまり事業者に利用されていない。嵩上げ等を行う津波被災と異なり、地震の被災地では原地再建することができる事業者が多いのだろう。そうした中でも、特に都市計画事業を行おうとしている地区、主要道路が寸断された地区の事業者にとっては、仮設とはいえ再開場所がありまた無償であることには意義があると思われる。地域の事業者を支えることは、ひいては地域の復興にも効果があるのだろう。

仮設住宅の敷地内に建てられていたものが3箇所ある。益城町の大規模団地では、周辺に商業施設が少なく人口も多いので、仮設のイオン系スーパーも隣接して立地しており、消費者側の需要もあるようだが、他は必ずしもそうでもなさそうであった。仮設住宅で生活されている方々の買い物先、外食先などがどのようになっているかは知りたいと思った。
しかし、仮設住宅の整備時には仮設店舗の整備自体が計画されていなかったようである。仮設住宅が優先して建てられ、その後、産業用仮設施設の整備という例が東北の被災地でも一般的だったが、仮設住宅団地が既存の市街地から離れている場合、規模が大きい場合などには、仮設住宅整備の段階で敷地の一部を仮設店舗用に確保しておくことを検討するというのがあってもいいだろう。

4. 阿蘇大橋の落橋現場を訪れて


▲ 阿蘇大橋落橋現場(被災から2ヶ月後(2016年6月)と2年後(2018年7月))

 今回足を運んで非常に大きなショックを受けたのが、阿蘇大橋の落橋現場である。被災から2年経っても寸断されたままの道路・剥き出しなままの山肌。ただでさえ衝撃的なその風景は、ここに架かっていた道路の役割について考えたとき、なお一層胸に迫るものであった。

南阿蘇村立野地区は、中九州の幹線道路である国道57号・国道325号が交わり、JR豊肥本線がスイッチバックする、交通の要衝である。ここでは、熊本地震の本震に伴い、大規模な斜面崩壊が発生した。その土砂は、国道57号や阿蘇大橋(国道325号)、JRをすべて飲み込むものであった。
阿蘇大橋は地盤のずれを主因として落橋、現場を車で走っていた大学生が土砂崩れに巻き込まれて命を落とした。国道57号ともども、寸断された状態が現在も続く。また、阿蘇大橋の下流に架かる阿蘇長陽大橋も甚大な被害を受け、立野地区は村の中心部と分断されることとなった(2017年8月に、被災から1年4ヶ月経って応急的に復旧)。同時に、村の南側でも、県道28号(熊本高森線)の橋梁やトンネルが連続的に損傷、通行不能に。熊本地震に際して、阿蘇の道路網を担う幹線道路は一気に寸断されたのである。地域全体で広域的に、大幅な迂回が必要となった。

考えてみれば、阿蘇と同じように、険しい地形に土木構造物を入れることで広域的な大動脈と地域住民の生活を担保している地域は、日本中至るところにあるのではと思う。それらの被災は、マクロな道路網の中でもクリティカルな箇所が被災することを意味するし、通行者に不自由な迂回路を選択することを迫るものでもある。
熊本地震では、震度7の前震から丸1日置いて、再び震度7の本震が起こった。前震への対処がままならない段階で、再び震度7に襲われ、そこでこうしたインフラ寸断が起こったということである。このことは、震災からの復旧・復興にも大きな影響を及ぼしたのではと思う。

現在も、熊本市内と阿蘇を結ぶ主要な交通手段は絶たれたまま、迂回路を通るしかない状態が続く。阿蘇大橋は下流の長陽大橋が応急復旧したことで、近隣に代替路が確保されたが、国道57号の迂回路は山道も含む不便なルートとなっている。
2020年度までに、阿蘇大橋は約600m下流にかけ替えられ、国道57号は13kmにわたり全く別の場所で(現行の迂回路に近いルートで)復旧されるという。原位置での復旧は、土砂災害の二次災害の危険性が高く難しいとされている。一方で、近隣で長年建設が予定されていた立野ダムは、今年8月になって、こちらは技術的な課題がないとして、予定通りの敷地で本体着工がなされた。

阿蘇大橋が落ち山肌が削られたままの現場を見ながら、同じような災害は各地で起こりうるということを強く感じた。復興を見据えたとき、まずは被災で起こる地域の分断に対処せねばならないと同時に、どう復旧するのかが地域を大きく組み換えてしまう可能性があることを考えていく必要があるのだと思う。
日本中の各地で、災害が起こる前からできることは、立野地区・阿蘇大橋のようにクリティカルな場所が被災したときにどう復旧させるか、それは復興後にどのような暮らしを描いたものなのか、予めシナリオを立てておくことに他ならないのかもしれない。

今回なされた選択によって、この土地の風景がどのように変わっていくのか、地域全体がどのように組み換わっていくのか、今の私には十分なイメージがつかない。この地域のこれからを見守り続けながら、この教訓が活かされるよう、色んな土地のことを考え続けていこうと思っている。


▲ 数百メートル下流では新しい橋の架橋作業が行われていた。

5. 被災した集落をめぐって

被災した各市町村の中心部や、仮設住宅をめぐる中、西原村、南阿蘇村の被災した集落にも足を運んだ。東日本大震災の被災集落では、原発事故による面的被害があり、津波被害に関して、被害を受けた地域とそうでない地域の差はあるものの、それなりの広さをもって被害が生じたといえる。しかし、今回の被害はさらに狭い範囲で、被災非被災の異なる場所が見られた。倒壊家屋が撤去され、各所に空き地が広がり、道路の復旧作業が行われている地区の反対側を見ると、復旧作業が完了した美しい水田と、その裏に広がる家屋と里山、という豊かな集落空間の対照的な光景が印象的であった。


▲ 左:住宅解体後の宅地/中央:通行止め区間の道路の復旧工事の様子/右:損壊したまま放置された道路

 地盤の変形による復旧工事により、道路の線形が大きく変わっている箇所も多数見られた。のどかな集落の端に、橋の復旧工事という巨大な土木工事が行われている様子はかなりのインパクトであった。


▲ 左:大切畑より先で道路に亀裂が入り路肩から崩れたため、今も通行止め。/中央、右:水田には水が張られ稲作が行われていた。

 被害を受けた地区に住んでいた方々は、撤去した空き地や、損壊した家屋の維持管理はどのように行っているのだろうか。西原村の集落には、被災した地区の中におしゃれなカフェがあったが、不運にも定休日であった…。


▲集落内にある洋菓子屋さん(Sakata sweet)は訪れた日が定休日だった

 南阿蘇村黒川地区は、先述の阿蘇大橋のたもとの集落である。東海大学のキャンパスが隣接し、多くの学生向け下宿やアパートが立ち並んでいた。地震により計7棟が倒壊し、学生3人がそれぞれ別のアパートの下敷きになり亡くなった場所でもある。
地震直後は断層の影響と見られる亀裂が農地、擁壁などに走っていたが、2年余りを経て、道路や擁壁の修復はなされ、農地の復旧作業が行われていた。
地震後、東海大学のキャンパスでは日常的な講義は行われておらず、今後は実習等に活用するという。学生が多く住んでいたアパートが残された集落は、地震によって未来像が大きく変わってしまった。


▲亀裂が入った農地では、擁壁を直す復旧工事が行われていた。(南阿蘇村黒川地区)(被災から1ヶ月後(2016年5月)と2年後(2018年7月))


▲墓地の崩れていた擁壁は修復されていた。(南阿蘇村黒川地区)(被災から1ヶ月後(2016年5月)と2年後(2018年7月))

6. 文化を残し、地域のよりどころとなる神社、祠

今回の被災地見学の中では、南阿蘇村の阿蘇神社や益城町の木山神社、そのほか地域の小さな神社にも足を運んだ。阿蘇神社の楼門倒壊は熊本地震の被害でも顕著なものであるが、そのような神社には文化財的側面だけでなく、地域コミュニティの一拠点としての側面があると考えられる。地震から2年以上を経たいま、それらはどのような姿になっているのだろう?という関心のもと、全国的に名の知れた神社だけでなく、注目されにくい集落の神社や祠にもいくつか訪れた。

我々が阿蘇神社を訪れたときには観光ツアーバスが来ており、ここでも熊本城と同様復興ツーリズムが行われているようであった。楼門は解体され、南側の門から境内に入る。境内の広い範囲は立ち入ることができず、お祓い等の神事は仮設の拝殿で行われていた。文化財としては大きな被害を受けたが、祈りの場としての役割は平時と異なる形でも存続しており(さらに被災時だからこそ、このような機能がより尊重されるとも考えられる)、神社仏閣の機能の多様性や重要性のようなものを感じた。

益城町にある木山神宮はそのほぼ全ての構造物が全壊し、現在はテントの下に賽銭箱が置かれているだけであった。それでも、震災が起きた2016年の10月には秋季例大祭が斎行され、「例年より多くの益城町氏子の参拝」(境内ポスター『熊本地震に伴う木山神宮の現状』より)があったという。ここでもやはり、建物は失われても、その存在価値は被災期だからこそ顕になるという様子が窺えた。


▲(左)阿蘇神社/(右)木山神宮

 一方で、今回の見学の中で巡った集落の中の神社や、地域コミュニティの中で大切にされてきたような空間は、場所にもよるが、復旧自体が難しい状況にあるように見受けられた。
建物が解体され、小さな祠として大切に残されている場所もあれば、倒壊しかねない状態の建物でもそのまま残されているような場所も見られた。どちらの場合も、花や飲み物が供えられ、おそらく地域の方が訪れているような形跡があり、地域のよりどころのひとつという機能はあるようであったが、いずれもすぐに手をまわし対処すること、復旧させることがなかなか難しい状況だということが窺えた。特にいつ倒壊してもおかしくないような神社については、地域の方が訪れることを考えると、人的被害が出る可能性も否定できない。
住宅の復旧などもまだ道半ばではあるが、このようなコミュニティのよりどころがどのように取り戻されていくのかにも、長い目でその動きを気にかけていけたら、と感じた。


▲各地域でみられた倒壊寸前の地域の神社(左:益城町・右:西原村)


▲黒川神社(南阿蘇村)(被災から1ヶ月後(2016年5月)と2年後(2018年7月))
ぽつんと置かれたお参りの場の中には、神社にも関わらず小さい仏像が安置されていた。

7. 益城町の区画整理対象市街地を歩いて


▲県道28号沿いの様子(同地点ではない)
(左: 損壊した建物が見える2年前の益城町木山交差点・右:拡幅が予定され空地が目立つ2018年7月の県道沿い)

 熊本地震被災地では、益城町中心市街地(宮園・木山地区)の「益城中央被災市街地復興土地区画整理事業」が、唯一の面的な市街地整備を伴う復興事業である。今回、その区画整理対象市街地の視察を行った。
この区画整理事業では、復興にあたり、県道28号(市街地を貫き、熊本市内と益城町を結んでいる)の拡幅整備をはじめ、脆弱な基盤の整備改善を図るものとされる。市街地全体が被災したことを考えれば、個々の宅地の再建では追いつかず、面的な市街地整備が必要ということであろう。とはいえ、面的な市街地整備には、時間的にも経済的にも、大きなコストを要する。今回の訪問にあたり、「この区画整理事業はどの程度妥当なものなのか?」という点は、我々の大きな関心事の1つであった。


▲2年前(2016年6月)と現在(2018年7月)。倒壊家屋が撤去され奥には住宅が新築されている。

 筆者は2年前、被災から1ヶ月経たない頃にも現地を見てまわったが、当時は県道沿いが瓦礫の山で倒壊家屋ばかり並んでいたのと比較すれば、現在は公費解体が終わり倒壊家屋はなく、道路の修復も進んでおり、宅地再建に向かっている状況を確認できた。一方で、擁壁の崩壊については、そのままだったり応急処置にとどまっていたり、という箇所も多く、二次被害が懸念される状況が未だみられる。県道沿いでは瓦礫はほぼ見当たらないが、裏通りでは建物・擁壁ともに、壊れたままの箇所が幾分見受けられる。


▲ 崩壊したままの擁壁や、条件の整わない宅地も多い一方で、新築での個別再建も一定数みられている。

 被害の分布という意味では、地区内でも敷地によって被害にばらつきがみられた。例えば、解体された宅地が多々ある一方で、その近隣敷地でも相当年数が経つとみられる町営団地が外観でわかるような被害を受けていない、というような状況である。
区画整理事業の都市計画決定により、区域内では、事業円滑化のための建築制限がなされている。とはいえ、一定の条件では新築が認められているようで、多数の新築住宅と空地が混在している状況がある。特に、区域の北側では新築ないし工事中の敷地も多く、区画整理の終了まで待てないという方が個別再建を始めておられるのだろう、という動きが強くみられる。また、区域内の事業者の方々も、徐々に事業を再開されている。被災建物やプレハブでの再開も多いが、(おそらく新築で)本設再開される方も出てきている。
被災から2年が経つが、まだ事業計画はできておらず、事業終了には早くてもさらに2年半はかかるといわれる。事業が長引けば長引くほど、新築での個別再建を希望される方は増えていくだろうし、事業の遂行は難しくなっていくのではないだろうか。

視察した結論として、市街地全域に近い範囲での区画整理を進めるには、大きな困難を伴うのではないかという印象を拭えなかった。確かに、県道28号は担う交通量に比べて狭く(大型バスも往来するが幅員10mしかない)、その道路整備を災害復旧に伴う宅地整備とあわせて行うことは一見合理的にみえる。しかし現実として、個別の生活再建に向けた動きが相当出てきている。また、区域内でも、場所に応じて(例えば県道の南北というだけでも)復旧の状況に差がみられる。円滑に区画整理を行うには、そうした点に寄り添う工夫が必要となるように思われた。

8. おわりに

今回の熊本地震被災地の訪問を振り返ってみると、熊本市中心部から南阿蘇村までを巡ったことで大きく2点のことが特徴として印象に残った。
1点目は、被災の局所性である。東日本大震災の津波被災地では、津波によって被害がまちや集落の広範囲が面的に被災しているところが多いが、熊本地震被災地では断層による地盤の亀裂や地盤沈下をはじめとする局所的な被害が多い。被災前と変わらない生活が行える地域のすぐそば、或いはその一角で大きな被害があり、被災者と非被災者が隣り合わせでいる状況が見てとれる。それが役所の対応の仕方(役所の方が自分事として捉えていないという被災者の認識を伺った)や支援のあり方にも影響を及ぼしているのではないだろうか。地盤の被害が局所的かつ致命的に大きな違いを生んでいる被災状況が、地区全体を眺めながらわかったことは、改めて学びだった。倒壊の危険のある神社や看板などがそのままになっているところが多くみられたのは二次災害が懸念され、気になった。

2点目は、熊本地震被災地内での復旧状況の違いである。1点目の被災の局所性に加え、熊本市を中心とする地域社会構造が被災地全体を見渡したときの復旧状況の違いに影響しているように思える。熊本という地域社会において、中心地は避難期が終わるとほぼ元の暮らしに戻っているが、今回見て回ったところでは被災が色濃く残っていて、復興は全く未完なのだと感じた。今も元の生活に戻れずにいるのはいわば周縁の、それも限定的な範囲であり、地域社会自体は回っていき、地域のなかでも被災が忘れられていく、その中でも、いろいろなものが実はまだ再建されていないままである、という構図にふれて、(熊本が地元の)自分ごととして実感しつつ、行政対応や支援の在り方(他人事のようになってしまう)を考えさせられた。そもそも被害状況が異なるので、慎重な検討が必要だが、周縁部の被災が取り残されているように感じた。
一方で、被災された方にお話を伺うと、「ほかに比べるとまだここは大丈夫」と考えている様子も多くあるようだった(東北と比べた熊本、益城と比べた阿蘇等)。彼らが被災の状況を相対化していたのは、自身の支援や視察等の経験から、ある程度客観的に被災をとらえることができたことが一因にあったのだろう。そのような、楽観的というべきか、相対的被災観というべきか、そうした気持ちが人によっては前を向く力になっているのかもしれない。

今回の訪問を通して、特に東京からだと、被災している場所、ひとが見えにくい状況になっていると感じた。東日本大震災のような面的な被災を見ているからか、熊本が普段生活している東京から比較的遠い場所だからなのか、自分たちの意識も(社会の注目も)つい局所的で遠い場所の被災状況に対して、薄れてしまうところがあるように思う。今年発生した西日本豪雨による被害や、大阪北部地震での被災なども含めて、引き続き、目を向けていけたらと思う。