地域デザインをめぐって vol.24 “有珠山”

火山とともに生きる地域 ―被災と恩恵―

窪田 亜矢 + 萩原 拓也 + 益邑 明伸 + 浜田 愛(都市デザイン研究室)

 2017年11月13日、北海道の南西に位置する活火山「有珠山」およびその周辺地域を訪れた。有珠山は、記憶に新しい2000年の噴火を始めとして、江戸時代以降幾度となく噴火を繰り返し、周辺のまちや村に被害をもたらしてきた火山である。
 今回は、有珠山における過去の噴火の被害・復興の様子と「ジオパーク」構想を学びに、札幌で行われた日本都市計画学会から足を伸ばした。

1.嘘をつかない火山 その噴火と復興の歴史

 どんよりと重く曇った空を映し出した静かな水面を左手に望みながら、ぐるっと車でひと回り。各々が誰にともなく、目に見えたものを口ずさむ車内。背後を取り囲む山々はほのかに新雪をかぶり、不慣れな寒さに凍える我々を一層心細くする。そんな巨大なカルデラ湖である洞爺湖の導く先に、最初の目的地である火山科学館は佇んでいた。
 火山博物館は、火山地形が織りなす豊かな自然の魅力を伝える支笏洞爺国立公園の洞爺湖ビジターセンターに併設されており、主に1977年及び2000年の噴火時の映像や写真などの史料を中心に、シアターや模型や震動体験など、訪れた人々が噴火当時の壮絶な様子を五感で追体験できるような仕組みが散りばめられている。


▲ 洞爺湖の岸に立つ洞爺湖ビジターセンター・火山博物館

過去の噴火の経験に基づく「ウソをつかない山」という信頼

 2000年の有珠山噴火は、ちょうど物心ついたばかりの小学校低学年の頃の出来事で、だからこそなのか、連日のニュースで放送されていたのを鮮明に覚えている。記憶に思いを馳せたのも束の間に、勧められるままに火山博物館のシアターの席につき、始まる有珠山の噴火とまちの歴史。
 何度も繰り返されるフレーズは、「ウソをつかない山」、有珠山。
 その由縁は、度重なる噴火とまちの人々が積み重ねてきた経験によるものである。すなわち、有珠山は1663(寛文3)年から現在まで、9度の噴火が記録されているが、噴火の前には毎度、前兆となる有感地震群を伴ってきたためである。明治以降の100年の間に噴火は火口を変えつつ4度に渡り、その都度地形は大きく変動し、人々はその変化に柔軟に対応しながら産業や暮らしを変化させてきた。その概要は以下のようにまとめられる。

◆1910年(M43)7月:北山麓から噴火
-東京帝国大学の大森房吉教授が、世界初の地震計による火山性地震の観測、精密測量による地殻変動の検出など、先駆的研究を行った
-大森教授の講義を聴講した室蘭警察署長飯田誠一が、前兆地震から噴火を察知し、12km以内に住む住民に事前に避難を命令し、犠牲者ゼロを実現
-「明治新山」と現在の洞爺湖温泉が誕生

◆1944-45年(S19-20)12月から1年以上:東山麓から噴火
-「昭和新山」が形成
-地元の郵便局長である三松正夫氏がその成長の記録をスケッチした「三松ダイヤグラム」が作成された

◆1977年(S52)8月:山頂から噴火
-噴煙の高さが最高1万2,000メートルまで及んだ
-道内の広域に火山灰が降り注ぎ、農作物に大きな被害が出た

◆2000年(H12)3-4月:西山山麓から噴火
-有珠山の北西「西山」の麓で噴火、のち洞爺湖温泉街至近の「金比羅山」に新たな火口ができ、噴火口が60箇所以上できた
-熱泥流が発生し、橋や温泉やまちの施設を破壊、また地殻変動により約80メートルも隆起した
-1万人以上が避難を実施、直接的な人命の被害なし

 「ウソをつかない」という言葉に込められた有珠山に対する信頼と愛情は、幾度に渡る災害と復興を繰り返されてきた経験と相乗効果的な意味合いが強いのか。1人の生涯で3度も4度もの噴火を目撃するというスパンの短さで繰り返される災害の経験が、この地域のアイデンティティと事前・事後復興への心構えを作り上げてきているように感じた。

2000年噴火の爪痕を歩く

 展示を見終わった後、2000年の噴火が作り出した地形や被害の記憶を残した火口散策路を巡った。2つある火口散策路のうち、金比羅火口災害遺構散策路は冬季閉鎖のため歩けなかったため、西山山麓火口散策路を巡った。


▲西山火口の麓に新たにできた沼に打ち捨てられた車が沈む。


▲ 沼によって寸断された国道。この国道は噴火前は下り坂であったが、この先が最大で70m隆起したため、ここに水が貯まるようになり、沼ができた。


▲枕木が敷かれた西山山麓火口のフットパス、隆起した道をゆく。目の前の山は17年前にはなかったものだということを体感として理解するのに、少し時間がかかった。


▲「グラーベン」と呼ばれる逆階段状に落ち込んだ断層が作り出した地溝。アスファルトに固められた町道が隆起することで、その形状が可視化されて残った。

 なんと3日前に一方の火口散策路が冬季閉鎖期間に入ったばかりで、歩ける範囲が限られていたことが悔やまれるが、それでも災害遺構とされる、2000年噴火時の泥流によって押し流された建物や道路施設などを見ることができた。その極めて自然な大地の動きは、相反して不自然な形となった人工の施設たちの存在が物語ってくれた。その場に立ち、感じ、見るという経験は、ビジターセンターで見た映像とところどころ重なり、我々の想像力を掻き立てた。

2.2000年噴火からの復興と土地利用規制

 20〜30年ほどのスパンで噴火を繰り返してきた有珠山だが、直近の噴火は2000年3月であった。洞爺湖温泉のすぐ近くに噴火口ができ、熱泥流が流れ出し、住宅、インフラ、農地などに甚大な被害をもたらした。2000年噴火に関する文献を参照すると、以下の6点は防災・復興の観点で注目すべき点とされる。

1. 噴火予知の成功および事前の適切な避難誘導により、犠牲者が一人も出なかったこと
2. 火山学者との連携の中で、気象庁により噴火前に「臨時火山情報」「緊急火山情報」として噴火に関する事前情報が提供されたこと
3. 避難指示区域の再度入域に際し、避難指示区域を火山学的検知による安全性とそれに行政的見地を加味し、三段階に区分した「カテゴリー」分けが行われたこと
4. これらの難しい施策を可能にした(現地在駐、組織横断、トップダウンの)行政対応(例えば、政府「非常災害現地対策本部」が初めて設置された)
5. 災害リスクに応じた土地利用規制の考え方を自治体が復興計画に導入したこと。また、これに伴い将来被害を受ける可能性がある地域の住宅の移転促進を試みたが、最終的に断念したこと。
6. 災害後の復興計画の中で、地元自治体は有珠山自体を防災対策、火山活動、歴史を学び体験できる「エコミュージアム」構想を策定し、新たな観光資源として「火山との共生」を詠っていること

 北海道大学を中心とした有珠山の火山学的調査が進んでおり、有珠山が規則的な火山活動をすることが明らかだったこと(火山博物館で繰り返された「ウソをつかない」に象徴される)は、有珠山噴火の特殊性である。上記6点についてもその影響は大きいであろうが、その点に留意した上でもなお、今後の災害対応の参考となるだろう。本稿ではこのうち、17年を経た現在の空間の形成に深く関係する2点を取り上げる。まず5点目の土地利用規制についてこの2章で、6点目のエコミュージアム構想から広がったジオパークについて3章で詳しく取り上げる。

災害危険度に応じた土地利用規制

 1977年噴火後に防災まちづくりが進まなかった反省を踏まえ、2000年6月に北海道と有珠山周辺3市町による復興計画策定へ向けた作業が始まった。有珠山噴火の周期性を考慮し、復旧にとどまらない、将来の災害にも備えたまちづくりの視点にたつ対策の早急な推進が周辺市町の共通認識であったという。北海道と周辺市町による企画課長会議が基本的な構想(基本方針)を策定し、市町ごとに復興計画を策定した。
 この復興計画策定の中で、将来の減災に資するために、防災マップを科学的根拠として危険度に応じて土地利用を規制していく考え方が示され、2001年3月の復興計画基本方針に位置付けられたことは、大きな特徴の一つであった。この考えに沿って、洞爺湖温泉小学校の移転、洞爺協会病院の移転、公営住宅建設場所の設定が行われたという。


▲ 区域設定と土地利用の想定(北海道「2000年有珠山噴火災害復興計画基本方針」(2001年3月)より)


▲ 土地利用区域図(廣井ら(2002)より)

土地利用規制と実際の空間整備

 Aゾーン(今回の噴火の火口に近接する区域で、噴火及び泥流による直接的な被害が著しい区域)、Xゾーン(今回の噴火で直接被害は受けなかったが、山麓崩壊等による泥流被害の危険性の高い区域)については防災施設用地、災害遺構保存地、自然公園などとして整備された。
 例えば、金比羅火口周辺はAゾーンに設定され、被災状態のままの建物を残しつつ、泥流土砂を堆積させ下流を守る遊砂地(平時は広場空間)、遊砂地へ泥流を導く導流堤が設けられた。今回歩くことはできなかった金比羅火口災害遺構散策路はこれらを縫うように設定されている。


▲災害遺構と導流堤、遊砂地を結ぶように火口散策路が設定された

 Xゾーンの建物は移転し、遊砂地、導流堤が設けられている。復興計画基本方針の図と現在の地図を照らし合わせると、Bゾーンには洞爺湖ビジターセンター・火山博物館が含まれるようである。


▲ 噴火後の洞爺湖温泉街周辺の様子と土地利用区域(国土地理院空中写真、北海道資料を基に益邑作成)
火口から熱泥流が温泉街に流れ込んでいるのがわかる。避難指示は段階的に解除され、2000年8月27日に全て解除された。


▲ 現在の洞爺湖温泉街周辺の様子と土地利用区域(地理院地図、北海道資料を基に益邑作成)
A、B、Xゾーンについては復興計画に沿った空間整備がなされている。

 Cゾーン(将来の噴火等に対して防災対策を講じる区域)については、様々な議論を経た結果、土地利用の誘導は実現されなかった。
 北海道は、「20年から30年周期で噴火を繰り返すと言われている有珠山周辺地域においては、噴火が起きれば自己責任で処理できないようなリスクに近づけるべきではな」いとして、国に対し既存法令の改正と既存制度の適用(注1)により、Cゾーンの住居移転への支援策を求めていた。
 一方で住民の強い反発があり、恒久的な防災対策を講じようとする行政側と、直接の利害者である住民との調整は困難であった。当初メディア報道が先行し、強制移転のイメージが拡がり、誤解が生じていたという。職住分離の方針は、従業員が住まないところで宿泊業を営むことになり、観光地を抱える洞爺湖温泉街からの反発も大きかった。
 2002年12月に国から、将来被災する可能性がある地域の住宅の安全な地域への移転に対する制度の創設は困難との見解が示された。北海道と地元市町の独自の支援制度の創設についても検討が行われたが、財政的な困難さ、住民の理解が得られていない等の理由により、最終的に2004年2月にCゾーンの土地利用誘導は白紙に戻された。

やや話題を広げて…

 Aゾーン、Xゾーン、Bゾーンは、例えば東日本大震災の津波被災地の集団移転後の低平地を連想させる。これらも、被災した空間に対し、将来の被害軽減のために土地利用規制と移転支援を行ったのであった。しかし、移転した跡地については、利用方法が定まっていないところが多くある。有珠山の麓では公園や防災のための土木構築物の用地となった。土木構築物と災害遺構を組み合わせ、その合間に散策路を整備することで、その土地を理解するための空間を少ないメンテナンスで実現しているように感じた。
 対して、Cゾーンは事前復興の課題である。これから津波被害が予想される地域では、災害リスクに応じた土地利用規制や移転の議論がなされている。
 有珠山噴火災害においては、北倉(2003)は、「火山噴火という広範囲で複合した被害をもたらす災害に対する復旧と、将来起こり得るであろう被害を未然に防止するための基本である土地利用規制に対する法制度」と「望ましい土地利用を誘導する具体策」が未確立であることを指摘し、Cゾーン設定の課題をゾーニング案の住民への提示の仕方や説明の仕方など合意形成過程の課題と、具体的な支援策の欠如を挙げている。大西(2003)は土地利用規制(計画)が防災対策の手法として用いられるためには、土地を巡る権利調整手法の開発と、整備事業等の財源問題に取組むことが必要だと指摘している。
 火山災害は、同じ火山でも火口の位置は変わり、噴火の種類、規模も異なり、不確定要素は大きい。その一方で有珠山噴火災害は比較的頻度が高く、一生に何度も経験する人が多い。そのような地域にあっても、事前復興的な住宅の移転は制度面だけでなく、住民としても容易に受け入れられるものではなかった。
 1910年噴火をルーツとする洞爺湖温泉街は、我々が訪れた頃は観光シーズンからは外れていたものの、海外からの観光客も含め多くの人が訪れていた。

3.ジオパーク構想へ

 ジオパークという概念がある。
 日本ジオパークネットワークのWebサイトによれば、「『地球・大地(ジオ:Geo)』と『公園(パーク:Park)』とを組み合わせた言葉で、『大地の公園』を意味し、地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができる場所」をいう。大地とその上に広がる生態系、それらを活かして人々が育んできた地域の歴史・文化・生活・産業を総合的に捉え、それぞれのつながりを知ることができる。ジオパークでは、「ジオサイト」と呼ばれる居所を指定・保護し、教育活動や、観光活動(ジオツーリズム)に活かしていくことで、地域の魅力を発信している。
 日本では、2005年に日本地質学会が中心にとなって、ジオパーク推進し、2007年ごろから普及し始めた。2017年9月現在、日本にジオパークは43地域あり、このうち洞爺湖有珠山を含めた8地域がユネスコ世界ジオパークにも認定されている。

 洞爺湖有珠山ジオパークは、約10 万年スケールの洞爺カルデラや、今もなお繰り返される火山活動によって姿を変える有珠山、多数の温泉など、地球のダイナミズムをまざまざと見せるユニークな地域であり、それらの恵みを享受しながら暮らしていた縄文・アイヌの先人たちの遺跡、そして現代、火山学・火山防災や砂防・治山分野において火山との共生のために貢献した人々の歴史といった、数多くの「大地の遺産」を有する。洞爺湖有珠山ジオパークでは、こうした、幾度となく災害をもたらしてきた有珠山・変動する大地と人が如何にして共生してきたか、という歴史を学ぶことができる。
 洞爺湖周辺の自治体では、2000年噴火のあと、洞爺湖周辺地域エコミュージアム構想が策定され、噴火遺構の保存や防災教育、野外遊歩道、野外開設板が設置されるなどの取り組みを行っていた。そして、2009年に世界ジオパークに認定され、その後、各自治体からなるジオパーク推進協議会により、マスタープランが策定され、地域企業・住民や地元大学などと様々な取り組みが計画・実施されている。


▲洞爺湖有珠山ジオパークのサイン・ジオサイトに掲示されている。

 洞爺湖有珠山ジオパークでは、ジオサイトを中心として、それらを結ぶフットパス、ビジターセンターやミュージアム、解説看板等が整備され、ガイドツアーなども行われている。

 今回、我々は第1章で述べた通り、2000年噴火の際の災害遺構(金毘羅山や西山山麓)及びをその周辺のフットパスを中心に見て回った。
 火山科学館・ビジターセンターには、散策用のパンフレット・ルートガイド等が充実しており、それを見ながら回ることができる。またジオサイトには案内サイン等も設置されており、学びの場としての整備が行われていた。

 その後、昭和新山の麓に設置された「三松正夫記念館」を訪れた、が、なんとこの日は「不」定休日であり、見学はできなかった。
 三松正夫は、昭和新山が形成される過程を1944年からの2年間、克明に記録し、「ミマツダイヤグラム」として残した人物である。このミマツダイヤグラムは、火山学・地質学の分野においては非常に貴重な資料と言われている。昭和新山が出現する前、その土地は畑であり、人の営みがある場所だった。郵便局員だった三松は、突如現れた昭和新山の形成の様子を記録し、さらに昭和新山を荒廃から守るため、私財を投じて昭和新山を土地ごと購入したとされる。

 ジオパークの理念が、大地、自然、人の営みの関係性の理解にあるとすれば、この三松の一連の活動は、正にジオパーク概念の源流であると言える。この地域に暮らす人々が火山との共生の歴史を継続してきた上に、現在の洞爺湖有珠山ジオパークが存在している。


▲昭和新山と三松正夫像

 今回の視察は、時間がなく駆け足になってしまい回ることができなかったが、洞爺湖有珠山ジオパークは更に広がりを持っている。美しい洞爺湖カルデラや、洞爺湖周辺の山々の登山道などによって構成されている。
 さらに、火山活動によって形成された平坦な火砕流台地で作られる作物、岩礁の多い海岸地形で育った魚介、そして洞爺湖温泉(入りたかった。。)など、多くの大地の恵みが存在する。これらによって、観光や農業などの生業がもたらされているが、地場の産業を育て・魅力を発信するのもジオパークの重要な役割であろう。

 今回訪れたジオサイトやフットパスなど、北海道という厳しい気候環境や規模の広大さゆえに、管理や運営にやや課題があるようにも感じられた。一方で、様々な人や団体が洞爺湖有珠山という独特の地形を核とし、ゆるやかなネットワークを形成しながら、地域を発信するというのが、ジオパークの本質であるようにも思われた。地域のなかで、それぞれができることを連携されることで広がりのある地域として育っていくように思われる。
 洞爺湖有珠山地域ではこれまでも人々が火山から恵みを受け、一方で、災害に備えることで、火山と共生するという価値観が共有されてきた。もちろん、洞爺湖有珠山ジオパークの理念には、火山と共生するための防災教育という面が大きくあるが、一般的な地域においては、人々がこれまで培ってきた自然や都市との関わり方を活かし、それを持続的なものにしていくための価値共有の枠組みとして、ジオパークという概念は非常に参考になるものであるように感じた。

4.むすび

 25-50年間隔という噴火頻度の非常に高い火山の裾野の町は、美しかった。雨曇りで眺望は効かなかったが、昭和新山の猛々しさは殊更際立っていた。こうした町での問いは「如何に次の噴火の被害を避けて暮らせるか」という一点であるのだろうと感じた。「噴火を防ごう」という発想もありえないし、「他所で暮らそう」ともならない。その問いに対する応えが、普通の暮らしに重ねられてきた。その期間は遠い昔のことではない。洞爺村の入植は明治半ばだし、1910年の地図に洞爺湖周辺の居住の様相はみられない。
 そのような地域が、最近では、土地利用設定による居住地の規制誘導、公有地化と公園化による観光産業の強化、地域が有する経験と価値の共有、という三点を相互に関係させつつ、国立公園やジオパークなどの使える制度を活用している。工夫の蓄積の結果として現れた風景に、自ずと育まれた地域の個性を感じた。


▲洞爺湖有珠山をめぐった仲間達。寒かったー。

脚注
注1 具体的には、活動火山対策特別措置法の改正による「火山災害特別警戒区域」の新設と、これによる防災集団移転促進事業、がけ地近接等危険住宅移転事業の適用を求めていた。
参考
洞爺湖ビジターセンター火山博物館・支笏洞爺国立公園のパンフレット
洞爺湖ビジターセンター火山博物館 http://www.toyako-vc.jp/volcano/
廣井 脩, 伊藤和明, 西出則武, 中村信郎, 田鍋敏也, 田中 淳, 中森広道, 宇田川真, 関谷直也(2002)「2000年有珠山噴火における災害情報の伝達と住民の対応」東京大学社会情報研究所調査研究紀要, 東京大学社会情報研究所, http://www.hiroi.iii.u-tokyo.ac.jp/index-houkokusho-rist-2000usu.pdf
南 慎一, 竹内 慎一, 戸松 誠(2004)有珠山周辺地域における土地利用ゾーニングに基づく建物移転について, 学術講演梗概集. F-1, 日本建築学会, 2004, 355-356, http://ci.nii.ac.jp/naid/110007072388/
北倉公彦(2003)「第2章 有珠山噴火災害復興計画におけるCゾーン設定の経過と残された課題」開発論集, 第71号, pp.25−52, http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20171028183247.pdf?id=ART0001204772
大西 有二(2003)「第13章 有珠山噴火をめぐる行政法上の諸課題—そして、土地利用規制—」開発論集, 第72号, pp.85−108,  http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/486/1/KAIHATSU-72-5.pdf
北海道「2000年有珠山噴火災害復興計画基本方針」(2001年3月)
北海道(2001)Cゾーン区域内の住居移転支援に対する考え方
広報そうべつ 2004年5月号 通巻485号