地域デザインをめぐって vol.19 “三陸”

5年後の三陸被災地を踏査して ―九州大学都市設計学研究室の黒瀬武史さんと

新妻 直人

9/19.20に東北地方三陸沿岸の被災地を訪れた。
九州大の黒瀬研究室と合同で、赤浜公民館の皆様のお話を伺いに行くことが今回の訪問の主目的であったが、同時に大船渡から大槌の三陸の集落を巡っていった。

1 三陸の集落を巡って

訪れたすべての集落についてではないが、主な集落についてここでは感想とその様子を掲載する。

〇本郷(岩手県大船渡市三陸町吉浜本郷)

低地部は水田が広がる。山間部の麓に集落が点在。
昭和三陸後の高台移転後、低地部での居住を制限してそれを守った結果、東日本大震災ではわずかな被害に留めることができた。「奇跡の集落」とも呼ばれ記念碑が作られている。数10か所の集落を回ったが、この集落だけ震災の爪跡がほとんど残っていない。青々とする稲のおかげか。低地に水田、高台に集落という策は、日本人にとってベストな策であるといえるのではないか。


▲写真①:高台から吉浜本郷を見下ろす


▲写真②:低地部に広がる水田と、高台の集落


▲地図③:吉浜本郷の浸水区域と建物被害状況の地図
(国土地理院の『基盤地図情報』及び、国土交通省都市局『復興支援調査アーカイブ』データより筆者作成)

〇湊(岩手県大船渡市三陸町綾里)

低地部は水田が広がり、山間部の麓の高台に宅地が並んでいる。高台に続く道にも、わずかながら津波の爪跡が残っていた。高台に並ぶ古い家屋が印象的である。津波が襲ってこなかったとはいえ、震災当時は大きな揺れが何度もあったはずである。改めて日本の住宅の丈夫さには感嘆の念を覚える。


▲写真④:5年たった現在も手を付けられないままの低地部と、家々が並ぶ高台


▲写真⑤:かなり古い家屋が密集する高台


▲地図⑥:綾里湊の浸水区域と建物被害状況の地図
(国土地理院の『基盤地図情報』及び、国土交通省都市局『復興支援調査アーカイブ』データより筆者作成)

〇花露辺(岩手県釜石市唐丹町)

急斜面のおかげで、大きな被害を受けることはなかったが、それでも低地部は相応の被害を受けている。訪れた際にはすでに低地部の嵩上げが済んでいて、最も高い場所に災害公営住宅と思われる建物も建っている。嵩上げ前の地形の名残も残っていて、どれだけの高さで嵩上げしたのか、震災前の集落の形はどのようであったかを感じることができた。


▲写真⑦:震災前の旧道(右)と震災後に整備された新道(左)


▲写真⑧:2つのガードレールを見れば、どの程度嵩上げされたのかがわかる。


▲地図⑨:花露浜の浸水区域と建物被害状況の地図
(国土地理院の『基盤地図情報』及び、国土交通省都市局『復興支援調査アーカイブ』データより筆者作成)

〇赤浜(岩手県上閉伊郡大槌町)

ひょっこりひょうたん島のモデルとなった蓬莱島がある。震災時にははまゆりが民宿の上に乗り上げた場所でも有名。2年前にも訪れた場所だが、蓬莱島の修復や工事の進展具合を見て、時間の流れを時間出来た。

山を切り開いた高台移転が着々と進んでいて、いよいよ住宅が建設されるかという段階にも見える。高台移転した場所からも海が見えたのは印象的。しかし、住宅が建つとこの景色はどうなるのか、気になるところではある。


▲写真⑩:蓬莱島の2年前の様子(左)と現在の様子(右)

写真11
▲写真⑪:赤浜で行われる宅地造成工事

図12
▲地図⑫:赤浜の浸水区域と建物被害状況の地図
(国土地理院の『基盤地図情報』及び、国土交通省都市局『復興支援調査アーカイブ』データより筆者作成)

〇吉里吉里(岩手県上閉伊郡大槌町)

高台移転した場所も、「想定外」の津波により被災してしまった地域。鵜住居や両石、大槌といった場所では流されてしまったJR山田線の駅が残っていて、その風景からは被災前の暮らしをも思い起こさせてくれるものであった。

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▲写真⑬:高台から。右に見える更地は津波で流された高台の集落があった場所

写真14 写真14
▲写真⑭:震災前の風景が残されるJR山田線吉里吉里駅。

図15
▲地図⑮:吉里吉里の浸水区域と建物被害状況の地図
(国土地理院の『基盤地図情報』及び、国土交通省都市局『復興支援調査アーカイブ』データより筆者作成)

山口弥一郎氏の『津浪と村』を片手に、岩手県の典型的なリアス海岸の広がる集落を見て回った。2年前に訪れたときも釜石~大槌の集落を見て回ったが、あの時と比べると多少の知識もついたことで、集落を見る視点の変化があったと思う。何もない低地や、壊れた防潮堤を、感傷に浸りながら眺めることから、過去の津波の被害を受けた集落の位置の変遷、その場所の地形、…そういったものも多少客観的に見つめる視点が自分の中に構築されたと思う。

集落の被害と、その復興の様子の集落による違いは非常に印象的である。防潮堤、嵩上げ、山の切り開き…何一つとっても同じではない。しかし、復興は被災したすべての集落で行われるわけで、その復興を画一的なメソッドで行うことは望ましくないのだということを改めて実感させられる。そのような状況下で、東北で今後再び起こるであろう地震、ひいては日本中で起こりうる災害へ備えたまちづくりをするために、学問があるべきなのではないか。

2 赤浜でのヒアリング

九州大建築学科黒瀬研究室と合同で、大槌町赤浜の公民館の皆様へのヒアリングを行った。

① 赤浜地区について
② 震災当日と、その後の避難生活の記憶
③ 仮設住宅ができてから現在まで
④ 質疑

今まで何度か、このように地元の方のお話を聞く機会があったが、何度聞いても言葉には簡単にできないいろいろな思いを抱く。「語り継ぐ」ということの大切さ、重要性を身に染みて実感する。メディアの発達のおかげで、遠く離れた自分に直接関係のない物事にも目を通し、多少の知識を身に付けることができる時代である。しかし、人が発する言葉、そしてそれを目で、耳で、身体で感じ取ることには、媒介された情報からは得ることのできない何か不思議な力があると思う。こうして「語り継」いでいくことが、震災の記憶を風化させない一番の方法だろうし、将来再び起こりうる災害への備えとして最も有用な事前対策であろうと考える。そういった「語り継ぎ」を何かデザインする方法はないのか、などという思いにも至った。

写真16
▲赤浜公民館、九州大黒瀬研究室の皆様と

3 まとめ

自身これまで3回、被災地を訪れたことになる。1回目は2年前の教養時代であり、都市工学を学ぶ前のことであった。当時は自分が研究という形で被災地を再び訪れることになろうとは想像もつかなかった。縁とは不思議なものだ。しかしこうして、被災地の過去や現在、そして未来について考え始めて、改めて自分の未熟さ、学問の奥深さを身に染みる今日この頃である。4月の研究室選びのガイダンスのときに、窪田先生がおっしゃっていたことをよく覚えている。

「ここはできたばかりの研究室で、地域デザインという学問もどんなものか確立されてはいない。共に新しい学問を築こうとする人を歓迎する。」

2年半という短い期間で自分に何ができるのだろうか。そんなことを考えていると不安や期待といったさまざまな感情が同時に自分を取り巻いたりするが、できる限りのことをやって日々考え、行動していきたいと思う。

最後に、赤浜公民館の皆様には大変お世話になりました。ここに感謝の意を示すとともに被災地の一日でも早い復興を心よりお祈りしています。

参考文献
『津浪と村』山口弥一郎