地域デザインをめぐって vol.12 “十津川”

水害フォーラム第3回: 十津川踏査に参加して

窪田 亜矢 + 柄澤 薫冬 + 李 美沙

2015年11月21-22日、第三回水害フォーラム(主催:リスクデザイン研究所)に、窪田・柄澤・李の3名が参加しました。2011年十津川大水害の被災後、復興の踏査です。

<大塔・谷瀬>

まず五條市大塔「星のくに」極近くでは、とあるハウスメーカーの協力もあって応急仮設住宅が建ちました。冬季には峠越えの道は凍結するということで、平場の非常に限られた中山間地域における土砂災害そのもの、そして復興の厳しさを感じました。  吉野杉の産地でもある深い山と幽谷では、大型トラックとのすれ違い時には大渋滞になりました。あちこちにまだ蛇のような土砂崩れの跡が残ります。

天ノ川が十津川になると谷瀬です。1954年に地元が大変な身銭を切って普請したという吊橋で有名ですが、残念ながら渡る時間はありませんでした。

<小井>

小湯(小井と湯之原)小学校跡地にある公会堂にて、小井の総代をされている岩崎様にお話をお伺いしました。林業を生業としてきた集落では、一番儲かる切りの人(主に若い人が担当)、出しの人などと担当が決まっており、主(ぬし)と呼ばれる親方のもとで、「朝雷は河を渡っちゃいけない」などの伝承も共有した暮らし方だったそうです。

十津川水害の時にはお一人が亡くなりました。

湯之原の工夫は、大工さんが丁寧に解体していた応急仮設住宅二世帯分を再度建て直し、住宅に転用し、賃貸収入を得ている点です。ちょうどタイミングも合って土地も有ったことが幸いし、環境資源としても経営的にももったいなくない再利用が実現しました。


図1
▲地形が非常に急で土砂災害は各所で起こりました。左下が十津川です。

<十津川の道の駅>

十津川村役場にほど近い「道の駅」では被災時の冊子を拝読することができました。1889年の大水害後に移住した北海道の新十津川町との交流についても売店の方が語ってくださいました。商品が置いてあるだけでなく、今でも毎年、相互交流があるとのことです。

源泉掛け流しの湯宿に泊まり、水害について、復興について、話し合いました。


図2
▲明治の大水害後に十津川村から多くが移住してできた、北海道の新十津川町の名産品が並びます。

<高森>

翌22日朝は、奈良女子大学の室﨑千重先生にご同行いただき、災害公営住宅に入居されているお二方に、それぞれじっくりとお話をお伺いすることができました。

高森集落は、珍しく平地がありますが、そこに公営住宅を建設することはせずに、周辺のなだらかな斜面地に分棟形式で建設しています。そして、特養老人ホームも極近い、集落にとっての非常に貴重な平地は、これからのまちづくりを考えて、高齢者が二地域居住をしながら老人ホームに移行するための新たな施設建設を計画中です。

蓑原先生のアドバイスだったと伺いました。


図3
▲分棟形式、十津川材、スバルノフキオロシ(十津川村特有の住宅意匠)を施した公営住宅。設計はアルセッド。

さて、今西集落にお住まいだったTさん(男性)は、中学校時代から片道2時間歩いていたそうです。被災前の暮らしは、大きな買い物をしなくてはならないときはバスで平谷まで来てタクシーに戻っていたそうですが、そのようなことはさほどなく、非常に豊かな自然の中でゆったりとした時間を過ごしていた様子がよく理解できました。

水害時は、残っていた集落の方々7人でヘリコプターで救助されたそうです。つまりは車が近づけない敷地にお住まいでした。

足が悪くなったこともあって、色々と交流のあった仮設住宅から公営住宅に住むことを決断されました。木の香りのする非常に素敵な部屋(アルセッド設計)であるにもかかわらず、今西のもとの家、その周りの環境が如何にTさんにとってかけがえのないものだったのか、と思わざるを得ませんでした。

また、同じく公営住宅にお住まいのOさん(女性)は、桑畑集落からの移転でした。Oさんは、幼少の頃から様々なことを素晴らしいバイタリティと知恵と他者への愛情で乗り越えてきて、被災前は三世代で賑やかに、そして穏やかに大地と共に暮らしてきました。

ご自宅の近くは深層崩壊の危険もありますが、ご家族は戻られる決意をされ、Oさんは公営住宅を選びました。それは愛する御家族に、この先、迷惑をかけたくないという、ご自身の尊厳をかけた選択でした。今は、これまでの人生で一番楽だけれども、精神的には一番満たされていないとおっしゃいました。

被災状態から恒久住宅への転居が必ずしも希望の回復ではないこと、しかしそうした選択肢を用意することの意義を認識しました。


図4
▲エプロンのポケットに大根と白菜の種を突っ込んで避難し、それを蒔いてお味噌汁10人分ぐらいの青菜にしたそうです。

<今西>

最後に、今西集落の住人でもあり十津川村役場の鎌塚さんから、砂防堰堤の他、集水井事業として排水管工事などを徹底的に進めており、十津川水害と同じレベルの豪雨になっても土砂災害にはならない状況を教えていただきました。

また、明治ごろと想定されるご自宅に入れていただきました。敷地は、蜜柑、茶、栗、キーウィ、榊、杉、蜂蜜飼育と、あらゆる用途に有効利用されています。

被災前の暮らし方(お墓調査から「家」という存在が根強く集落の土地に根付いているものの伝承が難しい状況にあることやお祭りなど)、被災時の状況(ヘリコプターが戦場のようにたくさん飛んでいた)、被災後(90歳の女性が一人で住んでいる事例もある)について、地図や系譜をお示しいただきながら教えていただきました。特に、被災されて家に帰りたがっていたTさんを連れていって差し上げるなど、非常に強い紐帯が今西集落を支えてきたことがよく理解できました。

復興計画もおつくりになったあとに、今は、これからの十津川村を如何に豊かに暮らし続ける場所にしていくかという戦略づくりをされていました。その一連の流れが非常に重要だと感じました。高齢者の二地域居住を支える高森と、若者への魅力アピールとしての谷瀬という、二種類の新たな場を用意しながら、福祉系事業などでも外部ではなく内部で担うことによって年間一億円を地域内で回すことにつながり、地域の持続性につながるという構想でした。もともと免租地であった十津川村の挑戦です。長男には学をつけるから出て行ってしまうが、次男三男で「要らん子」とされる人々が、今、十津川村を支えているようです。


図5
▲急斜面の敷地のすべてが有効活用されて、あるべきものがあるべきところにある清々しさを感じました。

四年半を経て、すでに、仮設や公営住宅で亡くなっていった方が少なくない状況がありました。公営住宅に入居できたにもかかわらず、豊かな自然の中でのかけがえのない暮らしへの思いは弱まることがないのも感じました。

被災前後での空間や暮らし方の連続性は、果たして実現可能なのか、また必要とされているのか。新たな問いをいただきました。

今回もまたリスクデザイン研究所の皆様、田中さん、桐山さん、新田さんには特にお世話になりました。どうもありがとうございました。