地域デザインをめぐって vol.06 “中国地方”

宮島・益田・萩・萩往還を巡る旅

窪田 亜矢 + 柄澤 薫冬 + 柴田 純花 + 益邑 明伸

2014年11月17〜18日、広島から島根、山口へと地域デザインを味わう旅をしました。

宮島の庭園砂防

まず宮島の庭園砂防は、京都大学水牧君のレクチャーから始まりました。

厳島(斎く=神に仕える)は、近世から三景となる素が見出され、大正12年史蹟名勝、昭和27年特別史跡及び特別名勝、平成8年世界文化遺産になり価値付けられてきました。しかし、標高535mとされる弥山は、まさ土によって構成されており、断層からも土砂災害が頻度高く起こってきたことがわかっています。つまり、厳島では防災と景観の両立が意図されてきたといえます。

1541年の土砂災害により、紅葉谷川の河川改修が行われ、1738年には流出してきた土砂で西の松原を造成しました。1945年枕崎台風後に、本格的に庭園砂防が行われ「岩石公園築造趣意書」には以下の五点が示されているそうです。

1.巨石・大小の石は削らない
2.樹木は切らない
3.コンクリートは石で覆い、目に触れさせない
4.石材は外から入れず地のものを使う
5.庭師と協働する

「砂防計画絵図」には色とりどりの樹木の配置が記され、四季折々の美しさが描かれています。

レクチャー後の現地踏査では、庭園砂防が近代的な技術基準からは外れており、砂防機能には限界がありながらも、巨岩の置き方や流れの抑制による最大限の工夫があることを教えていただきました。川沿いに建つ旧い建築には、紅葉した樹木と川をのぞむ部屋が設けられており、景勝の地として人々に親しまれている気配を感じました。

御陰様で最高に美しい紅葉の瞬に居合わせられました。ありがとうございました。

島根県芸術文化センター「グラントワ」

続いて、益田にある島根県芸術文化センター「グラントワ」にむかいました。県知事の芸術への想いを受けて内藤廣氏が設計した公共施設1)です。中庭、建築内部空間、芝山など居心地の良い空間の魅力は体感、堪能でき、それらのディティ−ルや構成を学びました。しかし夜だったこともあり、駐車場や建築物の規模や動線を通じて施設と周辺環境がどのように関係づけられているのか、さらには大型文化施設そのものが地域に与えた影響についてはヒントを得られませんでした。

益田を後にし、夜の日本海沿いを萩に向かいます。萩では、浜崎にある、100年前に建てられたという芳和荘に泊まりました。野趣あふれる中庭を巡る回廊が魅力的でした。

宮本雅明・原田真宏らの一連の研究2)3)4)によれば、浜崎は萩城下町に連続する在方支配の港町で、17世紀に成立したのち大火等を契機に拡大し、19世紀初頭には蔵屋敷が建ち並び(文化元年1804「浜崎町復原図」)、漁業と廻船を主体とした港町として賑わいました(弘化3年1846「風土帳」、嘉永4年1851の居住者リスト)。しかし北国廻船の大型化に伴い水深の浅い浜崎への入港は減少し、明治20年1888「地籍復原図」によれば御船倉の舟入が埋め立てられ寺院等も宅地化しました。明治・大正期を通して、大阪の雑魚場一場、伊予三津浜と並ぶ国内有数の魚市場だったそうです。

積み重ねられた時代がわかる空間構造、敷地の残余地によって形成された広場空間、微高地だからこそ本町がここに選択されたことが明確な立地、屋敷が分割された町家と裏などが、何気ない風景に溶け込み、しっくりと住みこなされていました。重要伝統的建造物群保存地区選定(平成13年2001)。

浜崎の先端から見えていた指月山の麓にある萩城の三の丸は、堀内地区として最初期の重要伝統的建造物群保存地区の一つとして選定(昭和51年1976)されています。昭和42年には既に萩城跡(追加)と萩城下町の二地区が史跡指定される等、非常に盛んな町並み保存運動が展開されてきました。当時の菊屋嘉十郎市長は、昭和48年建築雑誌に、単体ではなく町並みとしての価値を保存すべきこと、電柱の地下埋設(結局、家の裏側への移転として実現)や条例化による独自の政策展開などを寄稿5)していて、驚かされました。

積み上げられた石の一つから城下町全体の土地利用に至るまで、多様な技術が凝縮された歴史的環境でした。しかしそれだけではなく、石積みと土塀、夏みかんの緑と橙の風景、清らかな藍場川は、歴史的環境保存が日常生活の場になっていることの証左だといえましょう。

まちを歩き始めてすぐに、萩まちじゅう博物館のスタッフですよ、と名乗られて、まちの魅力を語られた方に出会えたことは幸運でした。日常生活の場が誇らしく愛される場でもあることを強く感じました。

萩往還

続いて、萩往還をたどって南下しました。

萩往還は、萩城築城後に毛利氏が参勤交代の御成道として開きました(全長約53km)。

最初の宿駅が明木。曇り空を基本として、限定的に日光が射して光る石州の赤瓦の群が、暗い山並みに美しく映えていました。

重要伝統的建造物群保存地区に選定(平成23年2011)された佐々並にもかつて御客屋や御茶屋があり、街道を中心とした集落構造がはっきりと認識できます。たまたまお花の手入れをしていた方から、佐々並川の氾濫(昭和41年1966)や近年「どうしんてやろう会」が取り組んでいる空き家の活用や街道景観の向上についてお伺いすることができました。

いずれの集落でも、街道沿いは表の顔で、敷地裏手には水路と通路が通り、農作業の場が点在し、農地が広がっていました。表と裏による明解な土地利用によって生活が成り立っていることがよくわかりました。

これらの集落は、萩往還を介し、萩城下町と密接な関係を持つ中で存続してきました。明治維新を経て、萩は政治上・交通網上その中心性を失ったかのように見えます。そうした変化に対し、宮本常一氏は、周辺の村々・島々とのつながりの中で支えられ萩が明治維新前後の変容を乗り越えてきたと説きます7)。今回の短い訪問の中では、つながりそのものを空間から読み取ることはできませんでした。しかし、そこに生きる人々の中には、現在もなお、一体の「地域」として存続する何かがあるのではないか。そんな想像が膨らむ豊かな風景が、萩や萩往還には広がっていました。

途中、車窓からカルスト地形らしきものを眺めながら旧山陽道と萩往還の四つ辻にある防府天満宮、手前のまちの駅「うめてらす」にて旅を終えました。

参考文献

1) 内藤廣(2014)『内藤 廣の建築 2005-2013─素形から素景へ2』TOTO出版.
2) 原田真宏, 宮本雅明(2001)「萩市浜崎における町家の配置形式と建築形式―萩市浜崎の 町家と町並みに関する史的考察 (1)―」日本建築学会研究報告.九州支部.3 計画系, Vol.40, pp.457-460.
3) 原田真宏, 宮本雅明(2001)「萩市浜崎における町家の配置形式と建築形式―萩市浜崎の 町家と町並みに関する史的考察 (1)―」日本建築学会研究報告.九州支部.3 計画系, Vol.40, pp.453-456.
4) 宮本雅明, 原田真宏(2001)「萩市浜崎における町並み空間の形成―萩市浜崎の 町家と町並みに関する史的考察 (3)―」日本建築学会研究報告.九州支部.3 計画系, Vol.40, pp.449-452.
5) 菊屋嘉十郎(1973)「城下町萩の町並保存の経過とこれから」建築雑誌88(1074), pp.1321-1323.
6) 麻生由季, 宮本雅明(2009)「往還佐々並市・明木市の空間形成と機能配置―防長市町の空間と機能に関する研究 (1)」, 日本建築学会計画系論文集, Vol.74, No.646, pp.2717-2722.
7) 宮本常一(2014)『宮本常一著作集別集 私の日本地図13 萩附近』未来社.