地域デザインをめぐって vol.01 “対話”

文化的景観学ワークショップ 勝手に番外編

山口敬太さん + 窪田亜矢 / 上杉和央さん

奈良文化財研究所主催による「文化的景観学ワークショップ」が、2014年5月31日、京都にて開催されました。行政、NPO、コンサルタント会社、研究者ら、40名以上がそれぞれ自腹で集まるという奇跡的な集まりでした。声かけされた人がほぼ全員集まったそうで、6つのグループに別れての議論はどこも白熱しました。
冒頭に、大阪大学の小浦久子先生と宇治市の杉本宏さんが、それまでの検討会での議論をふまえて、掛合漫才よろしく問題提起をされました。

・文化的景観という法制度の枠組みは魔法の杖かと思ったら、全くそんなことはなかった。文化財である文化的景観としての景観地を表現系とするならば、その内在するシステムもよくわからないし、表現形とシステムの間の相互作用もはっきりしない。これらの課題を整理せよ。
・もし「文化的景観学」というものがあるならば、価値分析と計画論がかけ合わさったものではないか。どのような文化的景観学が構築し得るのか。

という2ラウンドでのワークショップ開始となりました。

窪田と同じチームでワークショップに参加した山口敬太さんとともに、ワークショップを振り返りつつ、そこから話を広げられればと思います。

Cチームのメンバー構成
検討会メンバー:上杉和央さん(京都府立大学)/吉原秀喜さん(平取町)
当日メンバー:高木晃さん(岐阜市教育委員会)/山本晃子さん(高島市教育委員会)/松熊修吾さん(西日本科学技術研究所)/山口敬太さん(京都大学)/窪田亜矢(東京大学)
サポートメンバー:松尾さん(上杉研究室)

追記(2014/6/9):Cチームのとりまとめをしてくださった検討会メンバー、上杉和央さんから、対話の感想もふまえたコメントをメールでいただきました。対話の最後に掲載しています。

窪田亜矢──Cチームは、石積みによる水路や石垣というモノで話が始められたのが非常に良かったですね。そうでなければ「文化的景観学」という抽象概念に飲み込まれてしまったと思います。
それですぐに「水路があることの本質的な価値って何か?水が流れていることなのか、田圃が続いていることなのか、そこに生態系ができることなのか、石積みそのものなのか」という具体的な価値の話に入れた。
つまり同じモノであっても色んな意味があるし、またそれが立地している地域によって、同じモノでも違う価値になるというところまで、一気に話が進みました。
さらに計画論として考えたときには「元の姿に戻す」ことが本当に正しいことなのか、実益や合理性といったものがなくて良いのか、という疑問がある一方で、記憶や愛着といった価値もあるという議論も興味深かったです。

山口敬太──そうですね。具体的に対象をイメージして議論できたのはよかったと思います。
たとえば水路・石垣ひとつでも、学術的には、景観を成り立たせているシステムや文脈を理解した上で、景観の価値を位置づけますが、その景観を維持している地元住民は必ずしもそうではないという、「ギャップ」に対する指摘もありました。ただ、空積みは維持が大変だからコンクリートにしてくれと要望していた地元住民が、山都町の空石積をみて、話をきいて、やっぱり空積みでいこうとなったり(松熊)、石垣の上にコンクリートブロックをのせていた針江でも、石で元の形に戻したいといった動きが出てきているように(山本)、地元住民の価値観は変わり得ます。その大きな要因が、外の眼(褒めてもらいたいという願望)ではないかという話もありました。
「地域らしさ」というのがあとで議論されますが、安易に元の姿に戻すことは、地域らしさの“表現”に逆行する場合もあるとは思います。ただ、この地域らしさをいかに評価し、その方向を定めるのか、というのは簡単には決められない問題ですね。


▲作業する、ワークショップ中の山口さん(中央)

窪田──誰の評価なのかという問題が、文化財を「守る」という範疇に収まるだけではなく、誰が地域の未来を決めて担っていくのか、すなわち「つくる」という計画論とも関わってくる、という点を明確にしておかないと、議論がわけわからなくなるという話をしましたね。
前者の「守る」に関連して、文化財の範疇は、既に先達の努力によって、有形だけではなく無形も、とか、“表現”形だけではなく内在するシステムも、といったように、どんどん拡張傾向にあると思います。現場でそれこそ多様な意見のど真ん中にいる行政の方々や設計の方々にとっては、まだ全く論理構築が足りていないことはよくわかりましたが、それでも文化財の範疇は広い、という認識は、学術的には為され得ていると思います。
ただ後者、すなわち「つくる」ときに、それが地域らしさと照らし合わせて妥当か否かという評価は自明ではない。時代や状況によっても変わる。そうした議論のときに、山口さんがAuthenticityという言葉をお使いになったのが印象的でした。

<地元住民><行政><学>という軸

山口──今回、文化財の範疇の拡張の可能性と、それを進めようとしているみなさんの姿勢には正直驚かされました。文化的景観学=価値分析(評価)×計画論(持続)、と「かける」を試みようとされているのも、望ましい方向だと思います。
“「つくる」ときに、それが地域らしさと照らし合わせて妥当か否かという評価”というのをどう考えるか、というにあたって、<地元住民>、<行政>、<学>、という3つの軸(主体の価値観軸)の話題提起をしました。
みなさんのお言葉もかりつつ具体的に言うと、学術的価値は、歴史地理学や民俗学、建築、造園、生態学などの知見をもとにあぶり出す景観の価値ですね。これに対して、地元住民はかれらの日常の暮らしというある種の世界の世界観でものをみますし、アイヌの話など(吉原)、信仰に根ざした非常に強い価値観もありますし、先ほど述べた褒められたい・認められたいという願望(上杉)や、記憶にもとづく愛着などのアイデンティティに関わるような価値観もあり(窪田)、これに観光や経済効率至上主義のような考え方も含めて、たいへん複雑な軸が内在しているように思います。窪田さんは文化的景観について「土地の持っている力をうまく利用してできている景観(もしくは地域らしさ)」と言い得て妙の表現をされましたが、実益や合理性は非常に大きな景観を形成する力になります。さらに、行政側も、制度や補助、支援のあり方がベースになりますし、自治体の中でも都市計画・土木行政と文化財行政の中で異なる価値観を持っている場合があります。これだけ複雑に価値軸が錯綜するなかで、「地域らしさ」をのばしていくような方向性を見出す必要があります。
そんななか、学(研究者・専門家)はそれなりに責任をもって、「つくる」景観の方向軸を示す必要があるでしょう。ただし、つくられる景観自体は、多様な対話の機会を通じて、「地域らしさ」や景観のAuthenticityを失わないように、ある程度の幅をもたせて考えるのが重要だろうという話になりましたね。高木さんはそれを「綿菓子」の様だ、と素晴らしい喩えをされたので、綿菓子モデルと名付けました。綿菓子の棒は、「文化的景観」と呪文を唱える魔法の杖である(吉原)し、景観を「つくる」プラットホームである(窪田)。景観計画などの制度は、ざらめという喩えもでました(窪田)。

綿菓子モデル

窪田──アナロジー使って成功する議論はそれほど多くないと思うのですが、高木さんの綿菓子モデルは秀逸でしたね~。次から次へとアイディアが生まれました。綿のふわふわっとしているところのどちらにあるのかを考えるイメージがぴたっとして。たとえば水路のコンクリ張りは一度は外に出る事を意味するかも知れないけれど、また元に戻す技術(山口)も伴えば、そのこと自体を原理主義的に否定するのも難しいという議論もできました。すなわち、綿菓子の割り箸=魔法の杖によって可能になる対話の場を、実際にやってみたという気がしました。
夜の懇親会のときにも綿菓子モデルは盛り上がって、新たな法制度の意味は、もしかしたらざらめではなくて綿菓子をつくる機械の動力ではないかというお話を上杉さんと高木さんはされたそうです。それもなるほど~、と思いました。
計画は、やはり合理性が本質だと思います。「土地の持っている力をうまく利用して」いればその状況は持続して、その結果、文化といえる景観が自ずと生じる。そのような「自ずと」あるいは「自然(じねん)」というメカニズムでないと、継続しないですよね。
ただそのときに、今は役立たないかも知れないけれど、過去の知見には何か意義があるに違いない、いつか役立つかも、と、考えたのが文化財かなと思っていますが、どうでしょうかね。それは余裕があるから、とかではなくて、蟻と蟋蟀でいえば蟻的な生き方の方が、地域社会が生き延びるための合理的な選択だったということではないか、と。
現時点においては、常に何が合理的な選択なのかがわからないので悩ましいわけですが、その選択を良いものにしてくれるという枠組みが、文化的景観だという捉え方は可能ですよね。

山口──綿菓子をつくる機械の動力ですか、なるほど。計画というのが窪田さんのおっしゃるように“「自ずと」あるいは「自然(じねん)」”で動く持続的な仕組みをつくることとすると、文化的景観の枠組みの中に“価値観の共有”のための取り組み、や、持続可能なシステムの評価・構築が不可欠になりますね。なので、生業がその景観のベースとすると、生業を維持する仕組みこそが重要な施策になりますし、たとえば農林水産業へ踏み込むことも考える必要がでてきます。でも、それをやり過ぎてしまうと、生業のあり方そのものを変えてしまうことにもなりかねません(補助金漬けになって自力をなくしてしまうなど)ので、そのリスクの扱いは難しそうです。ケースバイケースの慎重な判断を重ねるしかなさそうです。
また、窪田さんの、”今合理的だと思っているものが、将来にわたって持続的かどうか分からない、文化になるかどうか分からないから、判断が難しい”、とおっしゃっていたのも印象に残っています。一度壊れたら元には戻せない、という不可逆性、さらには不代替性こそが、文化財の意義なのでしょうね。なので、おそらくは、“大事そうなもの”はとりあえず残した上での合理性を考えよう、という態度が望ましいのかと思います。その残しておくというタイムスパンは、50-100年ではなく、1000年以上のスパンかもしれません。
農村であれば、その景観は、記録をしておけば復元・再生も可能な、割と融通のきく対象だと思います。凍結保存をするよりは、とりあえず残したまま放っておいて、いつか将来の世代(1000年後かもしれません)がうまく使える様にしておくと、生業、景観が再生され、文化として引き継がれるという可能性もあると思います。
ただ都市であれば一旦壊れてしまうと難しいですね。もう元の姿にする必然がなくなっていますから。こんなことを言っちゃうとおこられるかもしれませんが、都市では古いものは極力残しつつも、これからつくるものは、極力、地域の文脈を継承して将来の文化財にするようなものをつくってほしい し、そうした新陳代謝がある姿こそが都市景観の本質なのかと思います。なので、都市では、文脈の読み解きと現代への翻訳、そしてそれを尊重したまちづくりこそが大事だと思います。

窪田──1000年!というタイムスパン、「割と融通のきく」場所があるという発想、「とりあえず残したまま放って」おいても再生する生業もある、、、これらの、明るさを帯びた発想がとても魅力的です。そういう大らかさは、近代都市計画が全く身につけられなかったもので、今、非常に重要だと思っています。
特に東日本大震災以降、レジリエンスという概念が再発見されている状況がありますが、それはレジリエンスが消滅してきたという過去への反省にたっていると思われます。にも関わらず、なかなか実社会ではそう動いていない。
補助金でうまく支援できずに補助金漬けの状態に入ってしまったら、その産業は既にレジリエンスを失っているといえると思います。そういう状態を避けるためには、すなわち「とりあえず放っておいても大丈夫」な状態をつくりだすということは、自ずとそういう状態に入るまでの時間が必要で、だからこそ土地の上で構想すべきものです。
そこでの構想の仕方は、土地と社会との直接的な関係が重要な農村のような場所と、都市とではどのように違うのでしょうか。「新陳代謝がある姿こそが都市景観の本質」という点、激しく同意します。その新陳代謝は循環ではなくて何らか次の様相への変容という点が違うということでしょうか。つまりは流れている時間の性質が、二つの場所では違うということでしょうか。是非、ここらへんの、山口さんのお考えをもう少し突っ込んでお伺いしたいです。

農村の景観/都市の景観

山口──やや図式的にはなりますが、農村と都市とで考えてみます。
経済成長期を経て今も残っているような農村は、基本的に水と土と太陽というシンプルな要素に最適化した暮らしのあり方なので、基本的に担い手さえいれば持続し得る強度をもっていると思っています。近代以降農政の干渉が生業のシステムを変えたりもしましたが、基本的には景観を成り立たせてきたシステムは生きていて、生業にもとづく農村の景観を残しながら現代的な暮らしをするのも十分可能と思います。ただし放射能の問題はそれを越えてしまった。
一方で、都市の場合、交通や物流のあり方、経済システムなど、それを形成するシステムが複雑で変化に富んだものになっていますので、過去の景観を成り立たせてきたシステムがそのまま生きていることは珍しい。でも、それがその地域の資産、さらには文脈として息づいているのも間違いなく、また その存在が、現代の最適化のあり方に影響を与えているのも間違いないと思います。
たとえば、京都の町家も僕が学生時代の間もどんどん潰されてマンションになっていました。それがあるとき、それを改修してカフェやレストランにしたら儲かると気づき始めて、やたらできた(今もできている)。住居としても一部のひとは住み続けているし、新たに住み始めたりもしている。これが都市のライフスタイルとして価値をもったからでしょう。歴史的文脈は現代においても価値をもちえます。
さらにいえば、歴史的文脈が基盤になることで、現代における新たな文化形成上、非常に優位であるといえると思います。過去の蓄積に少し足すだけで、オリジナリティある新しいモノや個性的な人を生み出せたりしますから。
この歴史的文脈と現代の価値が混在しているのが都市の面白いところで、それをバラバラもしくはカオスにしないため、現代の景観形成の方向性を、その都市の歴史的文脈がもつ価値を活かし寄り添うように設定するのが、近年の京都における景観計画のねらいだったと思います。ただこれはあくまでミニマムの設定であり、それが安易に景観を形成してしまわないようにしないと変なことになりますね。
またそこでは専門家や行政がこの景観を守れというではなくて、あくまで地域住民が、景観形成の担い手として、歴史的文脈の理解と、それを活かした現代の住まい方を考え続けるのが重要と思います。外からきた開発業者はそれを尊重すべき。こういった点で、都市においても、文脈のあり方と、今後の方向性(これまで議論した”綿菓子”の棒の向く先)を一緒に考え、発信するのが研究者や学のミッションでしょうか。また、個々でばらばらにやる のではなく、ビジョンを共有できる場をつくること、またいったん”これでいこう”となったら、それを担保することは計画家の仕事になりますね。
こうみると、綿菓子モデルは、農村も都市も説明できてしまう、便利なモデルであるかもしれません。

窪田──最後に綿菓子モデルに戻って来ましたね。都市デザイン研究室の教授であった、故北沢猛先生は、計画論の中核にモデルを据えていらっしゃったと理解しています。一度、抽象化することで、むしろ様々な地域を検討の対象とすることができるという意味だと理解しています。
その意味で、綿菓子モデルといっているものを、精緻化し、適切な言葉で定義することが重要だと思います。綿菓子は、議論を膨らませるには素敵なネーミングなのですが、、、アナロジーではなく、本来あるべき言葉を名付けてあげることで、綿菓子モデルを発展的に解消し、現場で役立つモデルに、皆で育てていきましょう!

山口──モデルは大きな構造の理解に役立ちますね。綿菓子モデルの本質はその棒の向きと、綿菓子の幅だと思います。ある景観をそれを成り立たせるシステム や文脈を歴史、地理、民俗の基礎的素養に基づき理解し定めた上で、その景観の将来像を地元とともに考え、景観が持続し得る仕組みを描く必要があります。そのとき、文化的景観学検討会からも示されたように、前者の価値評価のベクトルと、後者の計画のベクトルを掛け合わせる必要がありますよね。簡単ではないですね、基礎的素養とプランニングのセンスがすごく求められると思います。特に学生さんには基礎的素養を身につけてほしい。
何が本質的価値なのか、幅はどこまで広げられ、誰がどう関わるのか、は地域によって全く違うのでいつも楽しみながら頭をかかえています。笑。当事者である住民のなかも多様で、やる気のある人たちの動きを、いかに地域ぐるみにするか、諸々の実験(?)を行っていますが、なかなか簡単ではありません。。。が、文化的景観の計画論の一番大事なのは人づくりになると思っています。
そういった議論は個々ではされていました。そんななか、プラットホームとしての文化的景観“学”が出てきたとすれば、大いに期待したいところですね。

窪田──今回は、実際に顔をつきあわせて議論して、そこから新たな論点が生み出されるようなやりとりを、本当にどうもありがとうございました。

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Cチームのとりまとめをしてくださった検討会メンバー、上杉和央さんから、対話の感想もふまえたコメントをいただきました。

上杉和央──たぶん、たとえば岐阜でも高島でも平取でも、文化的景観という呪文を発せずとも、地域づくり(計画)はできるのだと思います。そうではなく、「ぶんかてきけいか~ん」という呪文を唱えて、地域を考えようとするのは、どこに、どのような、効力があるのか?
そういう問いを杉本さんは発してましたが、結局のところ、「ぶんかてきけいか~ん」と唱えるためには、その地域のシステムとその歴史的な変遷をきちんと理解していなくてはなりません。
(このあたりで、ちらちらと某RPGが頭に浮かんでますが)「ぶんかてきけいか~ん」という呪文、実は、経験値をそれなりに積んだレベルの高い人物にのみ、発することの許された呪文、ということなのかなぁ。今回は、みんな経験値をそれなりに積んでいた人ばっかりなので、そのあたりはスルーでしたけど、結構、大事ですよね。
で、そういう経験値をつむ方法の提供だとか、それこそ、経験値を積むための場の提供、というのが文化的景観学の一つの大事な役割なのかな、と当日の議論を聞いていて感じました。

経験値って?何を経験すればいいんでしょ?
当日の議論でいえば、「同じ方向を向く」というのが印象的でしたが、その根幹をなすのは、地域の個性・地域らしさだ、ということになったかと思います。そのようなものに触れる経験、少しずつ理解する経験、ということかなぁ。。。
これに関して、私自身は、(文化的景観をあまりまだ知らない段階の)行政の方に説明する際、(世界遺産のOUVになぞらえて)Outstanding Local Value(s) という言葉を使っています。そういう小難しい言葉の 方が「おおっ」ってなる(笑) もちろん「顕著な地域的価値」と訳してもいいですが、住民の方にお話しするときは、それを「地域らしさ」と訳しています。

経験値を積み、OLVの一端がみえたとき、「〇〇はレベルがあがった。呪文「文化的景観」を覚えた」ってことになるんだろうかな、と。でも、どういう効力があるかはよく分からないので、とりあえず使ってみる(笑) たまに杖の振り方間違えることもあるけど、それこそ経験値上がれば、なんとか呪文とその効力をうまく使いこなせるようになるのかな。
もちろん、お二人のコメントにあるように、「ぶんかてきけいか~ん」の呪文は都市でも農村でも使えそうです。

あ、そうか、経験値あがれば、きれいな形の綿菓子を作れるってことですね。イチゴ味、ブルーハワイ味、いろんな綿菓子が、日本各地にできるといいですね~。

山口敬太(やまぐち・けいた)
1980年生まれ。京都大学大学院 工学研究科 社会基盤工学専攻 景観設計学分野 Urban & Landscape Design Lab. 助教。
http://lepl.uee.kyoto-u.ac.jp/yama.html
http://yamaguchikeita.wordpress.com/
上杉和央(うえすぎ・かずひろ)
京都府立大学 文学部 歴史学科 歴史学講座 准教授。