#20

神戸・塩屋

 旗振山とジェームス山と呼ばれる2つの小高い山に挟まれた谷あいに,塩屋というまちはある。漁港と小さな駅舎,チャーミングな商店街,古い洋館と石垣,こぢんまりとした家々が,肩を寄せ合うように建ち並び,その隙間には蛇行する河川や急な坂道,曲がりくねった路地や長く伸びた階段が,まるで立体的な迷路のように広がっている。辛うじて車が通れるみちはあるが,大型車やバスは入ってこられない。駅前には広場も,ロータリーもないし,既視感たっぷりの再開発ビルもなければ痛々しいモニュメントもない。あるのは,ひときわ狭いパサージュだ。魚屋や畳屋や定食屋や散髪屋や豆腐屋,近年は新たにカフェやバーなんかも軒を連ねるその通りは,恋人たちが手をつないで歩くのも難しいほどに狭い。「その狭さが気に入ったの」と彼女は言った。縁もゆかりもない,この地に越してくる彼女のような人が増えている。
神戸大空襲(1945年)と阪神・淡路大震災(1995年)での大規模被害を免れたこのまちも,時に大資本の前には変化を余儀なくされてきた。徐々に洋館の数は減少し,斜面の緑は削られた。その跡地には,ほぼ例外なくマンションが建った。「塩屋らしさ」は,じんわりと薄れてきている。そんな中,新たな課題が「塩屋らしさ」をさらに激しく揺さぶることになる。
まちを縦断する幅員16mの都市計画道路は,1948年に都市計画決定されて以来,未着手のまま建築制限だけが継続してきた。人口減少社会の到来は,都市計画に縮退というオプションを用意し,この道路計画についても推進か廃止かの選択が迫られた。行政当局はその判断を地域に委ねた。地元は割れた。でもそれは,土地の買収など個人的・直接的な利害関係をめぐるコンフリクトではなく,まさしく「塩屋らしさ」をテーマとする論戦だった。
「16mは絶対必要」という声がある一方で,「新たな道路なんていらない」という声があった。「防災のことを考えれば不可欠」「このままでは緊急車両が通れない」「通学路の事故防止のためにも歩道がいる」といった論理は鉄壁のように思えた。他方,「景観への配慮に欠ける」「コミュニティが分断される」といった主張は幾分精彩を欠いた。だがやがてそれらは,道路という「モノ」に焦点化した議論を穿ち,このまちの最も大切にすべき点は何かという視角を切り拓いた。
地元の提案をまとめるためのワークショップには90名近くの地域住民が参加した。大方の予想の通り,当初は混乱をきわめた。その場にいた全員が合意は不可能と感じたと思う。だが顛末は違った。「延長戦」を繰り返したのち,地元は最終的に「地域住民による見直しの考え方」という合意文書をまとめあげた。その中には「整備によって地形が大きく変わるおそれのある部分については,現状の保全を優先する」という重大な基本方針が示されている。その提案を受け,市は都市計画変更手続きに踏み切った。
もちろん,合意に至る道筋には激しい批判の応酬があり,泥臭い感情の押し付け合いがあった。しかしながら,最終的な文書を前に「16mは絶対必要」という主張は,「ぎりぎり納得した。でも妥協です」という言葉に変わった。「新たな道路なんていらない」という拒絶は,「残念な気持ちもあるのですが,妥協できました」という意識に変わった。「妥協」という言葉が,こんなにも創造的で光に溢れた響きを持つということを,ここまで洗練された融合を含意するということを,あれほど共感に満ちた表情で語られ得るのだということを,そのとき僕は初めて知ることになった。

2015.7.24 M.Tanaka

#20の田中正人さんは、(株)都市調査計画事務所代表という実務のど真ん中で仕事を重ねていらっしゃいつつ、修士修了直前に遭遇した阪神淡路大震災を契機に20年にわたって被災や復興にひたすら向き合い続けた研究者でもあります。
東日本大震災以降、遅まきながら復興デザイン研究をはじめてから何度となく田中さんの足跡をたどってきました。地域デザイン研究室の2015年度フライヤー写真でたまたま使った東垂水の風景が、実は田中さんのお仕事だったと知った時には驚愕しました。
特定非営利活動法人リスクデザイン研究所の理事長という顔もお持ちで、東日本大震災復興・後方支援フリーペーパーAntennaを発行されています。(窪田)

株式会社都市調査計画事務所
NPO法人リスクデザイン研究所