2015年6月23日、お2人の研究者の先生を研究室へお招きし、いま研究室で取り組んでいる研究活動についての研究会を開催しました。
学生がそれぞれの活動について発表し、それに対してコメントを頂く形で議論しました。

参加者:田中正人先生(株式会社都市調査計画事務所)、井本佐保里先生(復興デザイン研究体)、窪田、柄澤、益邑、李、伊奈、太田、澁谷

1.柄澤薫冬(M2)
そのまちらしさとはなにか −阪神・淡路大震災からの復興における満足感に着目して−
2.伊奈ゆう子、太田慈乃、澁谷崇(M1)
復興デザインスタジオで取り組んでいること −広島土砂災害−
3.益邑明伸、李美沙(M2)
福島PJ -小高の地域構想-

1.柄澤薫冬(M2)
そのまちらしさとはなにか −阪神・淡路大震災からの復興における満足感に着目して−

発表

阪神淡路大震災でうまく復興したと言われている若宮町を対象に、うまく復興したと言われている背景を分析したい。評価の理由として、多くの人が同じ地区でそのまま復興したこと(原位置復興)、公営住宅を含めヒューマンスケールな再建に尽力したことが挙げられる。
しかしよく見てみると、ソフトもハードも変わってしまっている。それでも当時も若宮町に居続けたいと考えて残っている人が存在するが、人は何に満足して復興したと思うのだろうか。多くのものが変わった中で自分のまちに連続性を感じ、多くの人が満足している背景を知りたい。
同じ地区内での復興、地区内復興と呼ぶが、その背景を知りたい。また郊外の普通の地域において、何かが起きた時だけではなく何も起きない時の連続性の保ち方、地域が続くための要因を探りたい。

今までの調査における問題点について。インタビューを行ってきたが、自治会長さんを通じて依頼したので、まちづくりや自治会活動に理解のある人に偏りが出てしまった。今後はもう少し対象を広げていきたい。
もう一つの課題として、阪神淡路大震災の20年後ということで、現在扱う意義がまだ見出しきれていないということがある。復興に関わった60-80歳の人たちが、20年経ち80-100歳くらいになっているので、亡くなったりするであろう。震災はまちづくりにおける一つの契機になっているが、震災時にはまちには関われていなかった人たちが、リタイアしてまちづくりに関わるようになった時に、まちを如何に継承出来るかというところを考えていきたい。

今後の方針

1)「そのまちらしさ」を手にいれる過程を明らかにする
若宮町らしさを取り戻した方法を探る。方向性として、うまくいった事例として扱うか、もしくは他の事例との検討し満足感を得られるようになる過程を明らかにするという二つが考えられるが、後者だと田中正人さんの研究に近づいていく可能性がある。一方で、若干の違いとも言える。

2)まちづくりを第2世代へいかに引き継ぐか
「満足」や「評価」という主観の話を避け、震災から20年経った時に世代交代がどう行われているか現象を分析しそれを記述する。震災を知らない層が次を担うということに対する問題意識から。

3)まちづくりの担い手形成のためのアプローチ論
震災を経て同じ方向を向くことはできるが、震災以外に同じ方向を向かせるトリガーはないのではないか。研究の方法としてうまく行った事例とうまくいってない事例の比較で震災以外のトリガーを探る。一人の人の人生というレベルを社会科学的視点で見て、それをフローチャート図のような都市工学的なものに落としてまとめたい。

質疑応答

窪田:復興プロセスにおいて、コミュニティがあるのか。
柄澤:高層マンションに入っているというように、今はコミュニティを欲していない人がいる。都心にはコミュニティがあまりないが、一方で震災を契機に都心のコミュニティが出来た事例もある。
窪田:ここでいうコミュニティは趣味の集まり程度でもいいのか。
柄澤:それでもいいが、震災では機能しないのでは。
窪田:ある地域におけるコミュニティの中の人が、他の地域と結びついていることにより広域的に機能する場合もある。
柄澤:震災ベースの話でもあるが、同じ状況にないと気持ちがわからないということもある。同じ空間にいて、特性がわかるような状況が大事ではないか。
田中:リサーチクエスチョンが3つあるが、なぜ被災地を対象にしているのか。どれも被災地以外の別の場所でも出来るのではないか。
柄澤:二つ理由がある。一つ目は、被災から20年経ったという視点で震災を扱いたいということ。20年前のことは普通の人は思い出せないが、震災が起きたということで20年前のことを思い出せるマーカーになっていて、震災直前のことも覚えているはず。二つ目は、なぜ阪神淡路大震災なのかということに関係するが、今後起きる可能性のある首都直下を念頭に置いていて、得られた知見を活かしたいという思いがある。
田中:20年前のマーカーとしてだけだったら、被災地でなくてもいいのではないか。首都直下の知見を得たいということもわかるが。
柄澤:何かしらインパクトがないと改めて見直すということはしないのではないか。都市計画道路が通るのを見直すとかでもいいとは思う。阪神淡路だからこそにはならないが、阪神淡路でもいいのではないか。
田中:テーマと災害復興の親和性がどこまであるのか。すなわちリサーチクエスチョンに対してどのような仮説があるのか。まちづくりの実践という意味では価値あることであるが。中澤さんの研究(「地方都市における郊外化の過程と世代交代に伴う郊外住宅地の変容」)は被災地は関係ない?
柄澤:研究自体は世代交代をみてみようというもの。子供ではなく子世代に焦点を当てた研究はあまりないのではないかと考えている。
田中:つまり、阪神淡路だと親世代と子世代で震災を知らないギャップが大きいのではないかということ?
柄澤:そうです。
窪田:被災地としての研究と今考えている研究との違いを、田中さんにお伺いしたほうがいい。
柄澤:今思っているモヤモヤ感があるが、被災地を考えることがこれから先東京で起きる大災害に役に立つのではないか、繋げたいという思いがあって、東京に生かせることを考えようとしてしまっている。
田中:被災直後の研究はたくさんあるし、長期を追うことの価値はあると思う。20年目というよりも20年間。30,40年を追う研究もあまりない。震災から全てが始まったわけではないので、長期を扱う中でその問題意識とのつながりが見えるといい。
柄澤:震災前から追った方がいいのか。
田中:震災→復興という流れの中でそのまちらしさを見つけてきたのではないかという仮説があるのか?
柄澤:むしろ震災前はあまりなかったところに、震災が起きてそのまちらしさが生まれたという過程があるのではないか。
田中:外からのインパクトがそのまちらしさを作ったということか。地域の人がそのまちらしさを作るには震災というような大きなインパクトが必要ではないかという結論になるのか?
柄澤:過程を明らかにすることで、インパクトがあったときにさらにどうするとそのまちらしさを手に入れることができるのかというところを知りたいし、次に生かせると考える。
田中:震災というインパクトがあると普通は無くなってしまって、逆にその方法論で取り戻すということはよくあるが。
柄澤:もともとの木密があったのに小綺麗な街になってしまって、でも若宮の人々はそのまちらしさを持っているというのが面白い。
田中:今のところが面白い。かつての若宮と今の若宮は客観的にも違うが、住んでいる人は同じであると考えているのであろう。そこが残さなければならない空間要素になる。
柄澤:だからこそこれを残すというピックアップは難しい。震災で残したものによる直接的な影響と、自分のライフステージにおける要因が複雑に絡み合っているので。
窪田:そのまちらしさを手に入れることが復興デザインの論点になると考えていると解釈している。昨日の田中正人さんの講義の話で、生活圏域がかぶったり生活空間の類似が大事だということが中心になるのではないかと思うが、どうしたら類似しているということを言えるのか。
田中:確かに要素は静的なものなので切り出しにくい。その時々の生活行動が連続性につながるのではないか。当然人によって違うが、これがあったから変わってないと認識できる部分については。
柄澤:そうですね。それが二段階あるのかと思っている。一段階目が、それぞれが復興できたと考えている個別の要素、すなわちそれぞれが若宮に残っている理由。それをまち全体の思いとして共有して行くプロセスが二段階目としてあるのだと思う。例えば、各自良い点、悪い点様々な思いを抱えていると思うが、その中でもとりあえず復興したと思うまでが一段回目だが、そこから更に「あのせんだんの木があってよかった」や「もう少しここを改善したい」など皆で話して共有される集団的記憶のようなものがありそう。それが二段階目。自分の生活が二段階の復興のプロセスを経ることで集団として機能するようになるのではないか。
窪田:なんで被災地なのか。もう少しきちんと考えたほうがいいとは思うが、少し整理されてきたのではないか。
田中:別のところでやったほうがいいとかではないので、その点だけ留意を。

2.伊奈ゆう子、太田慈乃、澁谷崇(M1)
復興デザインスタジオで取り組んでいること −広島土砂災害−

■ 発表

現在復興デザインスタジオでは広島土砂災害の現場である安佐南区八木・緑井地区を対象にしている。前半は調査班に分かれ、大きく歴史・災害時・災害後についてリサーチを深め、後半では4班に分かれて提案内容を検討している。今回は前日行われた中間ジュリーに基づいて各班で考えていることを発表する。

□八木用水班
太田川と平行して流れる八木用水というものがある。
八木用水が偶然かもしれないが、川からの洪水と山からの土砂災害という二つの災害の中心にあってシンボリック。
インタビューに置いて八木用水まで来ると安心感があったという話があったので、その特徴を生かして復興していこうとしている。
八木用水は各地区を繋ぐように流れていて、周辺が農地で開けている場所や、住宅地のなかで渡しをかけられている場所など様々な景観が存在。
避難時にこういうところに人々が集まっていくようにデザイン。

□道班
地区内に多く存在している里道に着目。
昔からの土地利用部分に集中しており、たて道が多いなかでコンターにそっていてレベル差を感じさせないよこ道。
背景としては都市計画道路が通るため周辺に対する影響を考えざるを得ないこと、また発災時の避難を考える際に「道」が重要であるということがある。
縦の道が主に土砂の流れる道だが、そこに対して田畑があったり石垣や垣根があったり、空間的な減災の工夫がある。沿道空間としてそのような工夫や災害の記憶を学び、将来的に地域景観につながっていくとよいと考えている。

□街区内広場班
緑井八丁目+都市計画道路
安全が担保しきれていない、コミュニティが崩壊している。
三角形で考えており、小さな三角形ごとに一時避難場所となれるような広場を作る。
縦方向に関してはあえて開渠+車道を少し掘り下げる。

■ 質疑応答

澁谷:都市計画道路が完成するのは10年後。それまでに既存のまちを立て直していくことが大切。
窪田:十津川村、土砂災害されていましたよね?
田中:土砂災害があるのになぜ彼らは戻るのか、という話だと、被災者は戻るのですか?
窪田:砂防堰堤もできるし、安全になるというイメージがある。一瞬安全かもしれないが、出来上がるまでの間や、また出来上がった後も砂がたまって危なくなっていくということに気付けないのではないかという問題意識を持っている。十津川村だと発想が全然違いますよね。わりとみんなで移転してしまおうみたいな話ではないですよね。
田中:砂防ダムで一定の安全が確保されるということ?
窪田:全ての沢に堰堤ができるという感じ(20基くらい)。そうすると広島って他にも危ないところが多いのに、なんでここだけこんなにという話はある。今回もたまたまここで土砂災害が起こっているだけで、昔にもすぐ近くで土砂災害が起こっている。
田中:街区内に広場を作ってつなげていこうみたいな話は僕も神戸でもやっているが、ここどれくらい傾斜しているかわからないが、行き止まりとかはないのか。
澁谷:あまりなかったと思う。
窪田:道はないが、基本農地で空隙が多い。山からでてくる谷筋の集落と太田川から出てくる集落がぶつかり合うあたりが八木用水なのではと思う。古くからの集落と、新市街地。
田中:新市街地と言っているのは?
窪田:もともと太田川の氾濫が強かった。
太田:八木用水が真ん中にある青い線で、そこの上から都市計画道路が計画されているあたりまで、土地利用として畑と集落だった。勾配はその辺まではまだ緩やかで、その先が一気に団地開発された(昭和40年頃)部分だが勾配が急。八木用水の下側はほぼ農地で、自然堤防の上に集落。太田川河川改修と共に区画整理事業をやって一気に市街地化した。
田中:都市計画道路の上は?
太田:ほとんどが山だった。
田中:それが元々の土地利用だった。氾濫するあたりは水田で。
都市計画道路自体への提案は盛り込まないのか?計画線を変えるのは難しいと思うが、単に標準断面で設計するのではない可能性があると思う。これが集落を分断するようなことがあるのであれば、なおのこと計画線内の作り方を提案してみては。何m?
澁谷:16m。一応アイデア段階で、都市計画道路つくる際にヘタ地ができるのでそこを計画しようと考えている。地形として都市計画道路の上か下に崖ができる、もしくは道路と同じレベルでつづいていく、の3パターンあると考えていて、平常時は公園や野菜の直売所といった日常で使えるもの。ボランティアの拠点となる場所があまりなかったという話を聞いたので、空地を残しておくことが大きな道路沿いには必要なのではないか。
田中:道路そのものではなく残地?おそらく二車線で全然面白くない。そこについても言っていけばいいのではないか。南北がすごく分断されてしまう。
窪田:道班で都市計画道路の話っていうのは何もしていないの?
太田:していたが、都市計画道路にどうするという話は全然しておらず背景として考えている。
田中:交通ネットワーク上重要な道路?
皆:いいえ。
澁谷:国道が通っているところをもう一本つなぐ山側のバイパス。
窪田:しかも両脇ができるかというとできない可能性が高くて、被災した緑井8丁目の部分は被災しているのでやろうと盛り上がっているが、全域でできるわけではない。
井本:意識が高くない部分では、いらないかもという話もある。
田中:じゃあ、なおさら。横に長い避難場所みたいなものを考えるとか。
窪田:釜石だって、そこに逃げたから、というのはある。
田中:都市計画決定は強力なので、なんでもできるというのは言い過ぎだが、線の中だとお金はある。
窪田:暫定利用とか言っちゃうのだろうか。
田中:どうせ両脇できないのだったら、両脇50年暫定利用とか。
窪田:東日本大震災の大槌で、国道を上げて防潮堤代わりにできないかという話も出たが、道路は防波堤ではないのでという当たり前の理由で受け入れられなかった。
道班で今の道がどのように機能しているかというあたりをきちんと学んでいくというあたりは位置付けていくべきで、昨日はここら辺がなかったのですごくいいお話になってしまっていた。たとえばその延長上に新しい都市計画道路を考えていくことはできるのでは?例えば沿道に対する考え方など。道路ができると必ず沿道ができるとか、道沿いにどういう土地利用ができるのか。それをトータルで考えた時に、災害の記憶の継承とか減災の取り組み等へとつながるのでは。
十津川村で公営住宅に地域性を反映させている事例があるが、継承すべき風景としてこういうものがちゃんとあるということをちゃんと言えるといい。
田中:昔からある集落部分は、過去の水害を経験しながら残って来た集落。きっと色んなことを考えてきたはずなので、中の道路形状が実は上手く考えられている部分があるのでは。
澁谷:街区内広場について、神戸ではどうなのか。活用や問題点。
田中:神戸は密集市街地なので、できるだけ隙間をつくるというのが防災上有効。老朽家屋撤去、荒れ地を整備して街区内に一つそういう場所をつくろうと言っている。制度的には行政の補助が入るとか、地域で空き地を管理するのであればそこの税金を免除するとか。日常的には自治会が管理しているので場所によっては畑に使っていたり、子供の広場だったり。
窪田:まちなか防災空地ですか?
田中:まちなか防災空地のこと。その制度作ってもらったんですよ、こういう制度があればやります、と。東垂水。既存の制度では何も出来ない地域。
窪田:行政に働きかけているのですか?このような制度がないと、というように。
田中:制度がないといけないというのは行政も認識しているが、つくっても活用されないというのが今まで。どういうのを作ったらそのモデルを作れるかというのを考えていて。ないよりましというもの。民地に税金使えないため難しかった。自治会が整備して管理するというのに行政がお金を出す。
澁谷:作った後にどういうふうに住民を巻き込んだ?
田中:最初からやりたい人はいないので、畑やるのでやる人いますか、と募集して手を挙げた人たちでグループを作った。
李:畑は何人くらい?
田中:実際畑にしたところは二箇所だが、全部で20人くらいではないか。
窪田:都市型災害の火災って、あっちに逃げたりこっちに逃げたりというのは有効だが、土砂災害のときにどう逃げればよいのかがよく分かっていない。圧倒的に流されてしまう状況下で、ここにいましょうというサインを出すこと自体が危ないのでは。しかも逃げろって言ったところで夜中で、外に逃げた方が助かるのか、自宅の二階にいた方が安全なのかという問題も。小さな工夫でなにかよい方法になるというのが言えると良いが、そうでもない。
田中:木密なんかはもともと区画整理ぐらいしかないという感じだった時に、ようやく東垂水のような小さな工夫ができてきた。圧倒的に土地利用。出来上がってしまっているところでどうするかというのは難しい。
窪田:広場とか何かを計画して上手く使われているという話題はあるか。コミュニティで上手くいっている事例等はあるか。
田中:広場がよかったかどうかではないが、まち全体がどうなったかが広場が使われるかに影響している。六甲道は2haの巨大な公園を作って、最初は批判があったがまちづくりがうまくいって、広場に子供とかたくさん集まっている。それは広場が良かったというよりもまちにうまく新しい人が入ってきているから。
伊奈:まちづくりに若い人が参加したということがある?
田中:あまりない。つくるプロセスが大事。北側にも8000㎡の大きい防災公園があって、何十回もワークショップをやってつくった。
窪田:プロセスは関係あるか?
田中:ニーズに合ったものができるし自分たちでつくった感があるので維持管理がされていく。それこそ次世代へ継承されるのかという話もあるが。
伊奈:成り立ちとして新興住宅団地がまだらにありコミュニティがないという現状に、あえてコミュニケーションの場を横に長く設計するのを試みている。でもそもそも新しくそういうものを埋め込むということが可能なのかが疑問。用水の意味は農業従事者にとっては大きいが、それ以外の人にとっては意味合いも軸性もない。そういう意味で、住宅団地に住む人たちに何か意味付けができるのか。
田中:この用水は今も現役?
伊奈:200世帯くらいの農家の土地に水を供給している。
田中:用水をどう活用しようという提案?
伊奈:いままだアイデア段階でしかなくて。避難するときの八木用水はすぐ近くとかすぐ下に避難所がある。八木用水まで抜けてくればある程度土砂からは逃げられる。避難の一時滞在場所なのかきっかけの場所なのかはわからないが。とりあえず情報交換の場になればいいなと思っている。地区の単位が輪切りにあるのでそれぞれの単位で。
田中:輪切りというのは?
伊奈:町内会が駅ごとに存在する。
田中:川に対して垂直方向?
柄澤:ホワイトボードで説明。
田中:避難動線は日常の動線?水路を越えて駅に向かう?日頃の動線の中に用水をうまく組み込めたらいいなと思った。家から駅に行くまでに必ず横断するわけですよね?そのときに何か仕掛けをするとか。用水の側に避難場所がある?
伊奈:はい。小学校。
窪田:六甲道の広場が使われているのは周辺のまちづくりとの絡みがあるからというように、駅とか周辺のまちづくりがどうなっていて日常的にどうなっているのかを考える必要がある。
伊奈:そこに、まちづくりの主体が想像できない。家族で土地を買って住むとかそういう町。みんなで用水なんとかしようとかそういう町ではない。
窪田:PTAとか考えればいいのでは。
田中:地域の人は縦方向への意識しかないんだと思う。でも必ず交わるので、避難場所への経路とか、小学校への道とか考えれば多少地域の人を巻き込めるではないか。

3.益邑明伸、李美沙(M2)
福島PJ -小高の地域構想-

■ 発表

益邑:
昼間は商売をしている人もいる。海と山に広がっていて真ん中に浜通りが通っている。
小高はまちなかと在からなる。周辺のことを在と呼ぶ。
小高神社で神事が行われていた。
原発誘致によって、様々な商売が成り立ち出した。
地域が分かれている。溜池が多い。農業用水にしていた。
李:
震災以降の産業の課題
一次産業:水田は汚染が高く再開が難しい。ソーラーパネル設置の話も。
二次産業:70年代電気系有力企業が誘致。多くの若者が大企業に勤めてからどんどん独立していくという流れ。
三次産業:震災前は地域の中でうまく需給バランスがとれて商業がまわっていた。震災後はちらほら戻っているが、来年四月に避難指示解除されてもまちなかが穴あきになってしまいそうな状況。

生業について
どれくらいの地域の範囲で「まわっていた」のか。
まちなかと周辺の在、浪江や原町との関係。

研究の目的
・圏域の成り立ちを明らかにする
・圏域により復興がどう影響を受けたのか。待っている人がいるから再開する、昔からある店を使う、ということが震災後に生きているのではないか。
・もうひとつの興味として、1人の人生の中での圏域の変遷を明らかにしたい。

■ 質疑応答

窪田:圏域の既往研究のなかで、通学圏の話をしているものがある。社会的な背景も含めた分析をしている。
田中:産業の循環の話は面白い。御菅地区は区画整理する前は町工場と個人商店とがあったが、非常に狭い地域200mくらいでの圏域があった。町工場は分業していて、喫茶店で打ち合わせをしていて、食材はその近くの市場で回っていたというような話もある。ダイヤグラムのようなまとめはしていないが、良いなと思っていた。
李:葬祭場と花屋のような話はインタビューで聞いた。地図上でもプロットできる。
田中:震災前後でどう変わったかというのがある。
李:震災前後でどう変化したのかということも一つのフェーズとしてあるだろう。
窪田:震災後でも震災直後と、今という二つがある。
李:直後から今、戻っているところもある。
田中:どう戻ったかが大事であろう。どこかが戻らないと戻れない、もしくは戻らないということがあると思うので。
李:インタビューする限りは、そのような、どこかが始めたから戻ったという話は聞いていない。
田中:地図上で示すとどれくらいの圏域になる?
窪田:商店街の端から端が1.2km。小高の海から山際までが12?kmとか。例えば理容室みたいなところは水が通ってない時期から自分で水をとって営業再開した。
李:理容室には長野に避難した人も、わざわざ月に一回戻って来るような人もいる。先祖代々で。
田中:理容室ってそういうところがある。特に男性はそう。それは同じ場所で再開している?
李:同じ場所の場合もあるし、仮説工場(原町)でやっている場合もある。原町で本設でお菓子屋さんをやっている人もいるが、そこは小高に戻ろうとしている。
田中:なぜそこでやろうと?
李:たまたまその用地があって、空いている土地に構えた。
田中:元の狭い圏域の中で成り立っていた。場所がないから他のところに移るが、生業は他で一回始めた後に戻ってくるのか。お客さんの関係で難しいのでは。
李:お菓子屋さんは被害が大きくはないので、戻ってくることは出来る。
窪田:とても人気。
田中:御菅の場合は、長田区に行政が仮設工場を建てた。そこに行った人もいる。そうじゃない人は廃業した人が多いのでは。喫茶店とかそこの場所だからやっていた。
窪田:仮設工場が本設になるということは?
田中:あるのではないか。
益邑:6箇所作ってあって、1箇所は本設になった。
窪田:それは立て替えたのか?
益邑:立て替えてはない。補強はしたかもしれないが。神戸ハイテクパークは今も続いている。
窪田:他でやれたから戻ってこないというケースもあるが、再開せずに廃業するケースもある。そのような人はもう一度やる気が起こらなかったのだろう。
窪田:魚屋さんは、小高は昼間には人がいるが夜にはいないので仮設のほうでやっている。お客さんは小高の人なので、住めるようになったらもしかしたら小高の方で戻ってくるかも。
田中:今のはうまくいきそうな例?
李:いまのところ。再開している
田中:その話と復興事業とは特に関連はないのか。
李:グループ補助金という事業制度があってその仕組みを使って、鋳物業を再開させたところはある。
田中:なんのグループ?
李:業種。
益邑:阪神淡路でも産業復興でやられている。国と県がそれぞれ負担するというもの。個別でやると、私有財産への補助になるから、複数でやることで大丈夫なように。
窪田:東日本大震災で相当数ある。同じ業種の他に商店街単位でグループを作るなど、割と柔軟に作れる。
田中:先ほどのネットワーク図だったら、学校と牛乳屋とかでもいいのか。
益邑:いいと思う。
窪田:グループの査定が意外にゆるくて、グループでなくても通ってしまった。個別の財産にできないから、自治体のものとしてやっていくようなケースのように励ましにならないのか。
田中:南相馬の復興計画とは?
窪田:誘致。まちなか中心。まちづくり活性化
益邑:ハコモノを一個作る。公営住宅を作る。
田中:関連は通じるのか。他があったからつながるとか。
李:今のところはない。そのような観点で見ていなかった。
窪田:いい復興計画ということを考えた時に違っていた。
益邑:小高にあった旅館が原町の仮設でホテルをやっているという例がある。家族経営だったが、震災後人を雇った。将来は小高に本設をつくると言っているが、旅館じゃなくてホテルでやると言っている。そのような業種転換もありうる。
窪田:昨日の李の質問について。上の方の人のつながりがあるからそこを作り込むことが大事という田中さんの解釈であったが、彼女が考えているのは、生業がなんとなく回っていくということが人と物との関係性のベースを作るということ、なのでは。
李:そこまでは考えていなかった。田中さんが着目されている下の人たちを救えるようにしたほうがいいと考える。田中さんに言う話ではないかもしれないが、コミュニティの空間を上の人たちのために作るということに疑問がある。そういう方向にお金を費やすというよりも生業などにお金を使った方がいいと感じた。
田中:ふれあいセンターとかは頂点が高い人のためだが、生業支援は下の方の人のため。三角形の頂点が下がった人に対して、高い支援をしたところでなんの意味もなくて、低い人には低いアプローチが必要。
李:直接的な支援というよりは、生業への支援によって間接的に下の人たちが救われないかなというのは飛躍がある?
田中:全然ないと思う。一緒。頂点をあげるのか、あげられないなら空間の作り方によってベースを支えるかしかない。今の復興計画はどっちにもなっていない。空を切っている。
窪田:後者については、商店会長が戻ってこないと回らないというところで感じている。
田中:個人の生活圏の話をしていたが、その点はどうなのか。
李:これが行き着く場所がない。
田中:一人の人生を追いかけている。震災前後でだいぶ変わりますよね。
李:考えいたのは震災後の話ではなくて震災前がどうであったかということで、これから大切にしていく場所が見えるのではないかと思っている。
田中:串本町の調査をした時に高台に移転した人の移転後の話と移転前の話を聞いた。網羅的ではないが。圏域の変化と圏域内の移動手段(どう移動したか)。徒歩だけだった人が他の交通手段だったらもっと広がる。元々車を使っていた人はそのまま広い。元々歩いていた人は、別の交通手段を使わざるを得ない。そのほか、別のお金がかかる手段。その3パターンで今現在はなんとかやっているが、どれも危うい。知り合いが来てくれるというケースもあるが、80歳の人のところに80歳くらいの人が来たり。
李:何年前くらいにした調査?
田中:二年前。査読がある。自主的な高所移転の実態とその背景 低地に住んでいる人の調査と、高台に移転したの調査の二つがある。
窪田:この方たちは仕事を変えていない?
田中:仕事を変えた人はいない。リタイアしていた人も多いが。
窪田;商店街みたいなような物がありますが、そのような溜まりかたがあったのでは? ぶらぶら歩いたりとかしていたようなものの移転はないか。小高はついでに買い物してついでに人の顔をみたりとか。
田中:商店街とはそういうもの。海南の地区とかは特にその傾向が強いかもしれない。串本の商店街はそこなでの規模はないのでは。集積もしてないですし、みんなスーパーに行ってしまう。

4.益邑明伸(M2)
阪神淡路大震災で考えたこと

■ 発表

復興過程での土地利用について。
空間を足しあわせるのではなく、使い回すということが重要なのではないか。
仮設、廃棄物処理、災害公営の3つで空間を必要とする時間のずれがある。
同じ空間を仮設から公営に使い回しが出来るのではないか。
阪神淡路の時はこのような使い回しはなかった。
仮設→災害公営は可能なのか。

■ 質疑応答

田中:そこで解消できるということがわかっていればできると思いますが。
益邑:復興デザインスタジオでやったこと。一部損傷のようなすぐに出られる人をまとめたものがあったらいいのではないか。すぐに撤去しやすくなるので。
田中:ただ、持ち家の人で入ってるケースはすごく少ない。対象にはできるかもしれないが。借家の人が多いと思われる。
窪田:仮設を作った時に2年という年限があった。2年経ったら出ていくだろうという感覚があったのか?東日本では年限があったが、まあ無理だよねという感じだった。 災害公営と仮設のどちらかが外に出るなら、災害公営が外でもいいというような話が昨日あったと思う。両方ともうまく行くならやりくりできるが、そこらへんの根拠は?
田中:これでみていくと理論上は可能。仮設で立ててしまうと、公営が建てられなくなるので郊外へ持っていくという流れ。 根拠が明確にあるわけではないが、仮設はロケーションによって孤独死の割合が変わる。公営はそうならない。立地と孤立化の問題。どこに立地している公営だから、という考え方がなく、それよりは居住階など身近な環境。公営住宅に入っている時点で、すでに関係が切れているから元に戻ったところで意味がないのでは。最初に切れてしまうと次の手立てがない。
窪田:市は立地とかよりも公営住宅の建て方を考えないといけない、ということですか?
田中:立地が関係ないなら、少々離れてでも元の形の公営住宅を作るのがいいのではないか。それくらい、直近の関係は大きいと思う。
窪田:生活圏?生活空間?
田中:生活空間の類似という意味では、すごく遠くに行っても同じような環境ならいいのではという考え方がある。
窪田:全く同じでなくても近ければいいという話であったか。
田中:一緒でなくてもいい。なにかどこか重なっていれば、というくらいのもの。 事後的にこのグラフはかけるがリアルタイムでこれをマネジメントするにはどうするのか。システム?シナリオ?
益邑:シナリオとは?
田中:仮設市街地で言われているようなイメージ。この土地を一ヶ月後からこの期間はこういう使い方をして、その後はこうしますというようなストーリーを作っておくのか。
益邑:そういうストーリーがあると入る人がいて、そのストーリーに合わせて住宅共有を調整出来る。
田中:考え方はわかる。
益邑:量的、時間的、空間的把握が難しい。廃棄物処理くらいだったらわかりやすいが。多分事前には無理。災害後に考えるのか。ちょっとわからない。
田中:綿密にプランを作っておいてもその通りにいかない。 仮設住宅を作るだけの用地があるのか?例えば東京で首都直下が起こった時など。これは仮設住宅のスペースを使い回すということであるが、そもそもとして、仮設さえも足りないのでは。
益邑:首都直下は絶対的に足りない。どうしたらいいのか。湾岸の空いている土地は廃棄物で埋まると思う。
窪田:でもこのときも足りなかったんでしょ?
益邑:割合としては低いが郊外も使っている。
窪田:東京も郊外を含めて考えるのではどうか?東京2050では熊谷まで含めて考えていた。 スケールが大きくなるが、足りていないという状況は広げればどうにかなる。度合いは違うし、それが新たな問題になっているかもしれないが。 全部うまくやっていたらやりくりできたのに、という答えが出ているわけではない?
益邑:一部にそういうことが可能な場所があったということ。
窪田:こういう見取りのようなものは市役所に最初からなかったのか。最初からはなかったと思うが、仮設をここに作ってしまったらそのあと公営は建てられないな、というような。
益邑:それはあった。
窪田:優先順位がたてられたらいいですよね。比較不可能な物は多いと思うが。比較可能なものは何か。
田中:確かにエリアを広げていけば全部処理できるので、圏域ごとの優先順位というか。
益邑:赤浜では集中しているからこそ話し合いができている。一方で小高だと散らばっている。
窪田:赤浜からでてしまうとああ出ちゃった、という感覚があるが、阪神淡路や東京ではなんとなくできそう。
益邑;東京の時に外に飛ばすとなると、町丁目くらいになるのか。
窪田:厳しいのでは。何十世帯もある。首都直下が起きた時の集団避難みたいなもの?
益邑:どれくらいの単位になるのか。
田中:東京でそのようなものを考えられうるのか。そのまとまりで引っ越してくださいというような。
窪田:例えば神田とかでお祭りをやっている人のなかとかはできそう。だが、基本はばらばらだろう。
田中:仮設とか長期にわたるようなものの方が集団で考えた方がよいのでは。
益邑:千代田区の避難場所が別の市とかだと動けるかもしれない。東京都が東京都内でやりくりするとごっちゃになると思う。
窪田:世田谷区なんかは例えば姉妹都市のように提携を結んでいるところがある。そういう話がないと無理。
益邑:それを20km圏内でやったりするのか。
窪田:首都圏を想定しながら考えるのは難しい。
田中:昨日紹介した川口町のやり方が正解ではないか。集落ごとに公営住宅を必要個数だけ作った。最初に入居者が決まっていて彼らのために住宅をつくる。川口町の規模だからできるだろうというのはあるが。それに近い話がある程度の市でもできたらいいのではないか。
窪田;戸建て住宅地になっているところですよね?
田中:長屋。中越の復興公営はどこも同じような二階玄関。作り自体はあまり特徴がないが、立地が長岡とか小千谷で違ってくる。小千谷は一番まずかったと思うが。 集落単位で作ると空いたときに入る人がいないということが課題と言われるが、実際は埋まる。ずっと住んで入りわけではなく入れ替わりがあって、色々な人が住むようになっている。それは、淡路島とか他の地域でも言える。 小高も集団移転の中ではいい方。自力再建できない人も一緒に集団移転できた。一軒だけ金銭的に無理だということで残っているが。最初からわかっていたら、公営住宅を増やしてその中に入ろうということにもなっただろうが。
田中:この研究は、今後どうなっていくのか。
益邑:今ちょっと置いてある。修士論文の方は東日本の仮設工場・商店街の話をしている。
益邑:図には量が入っていない。災害公営だけ量が入っている。長く続いているよりも、ピークとかの方が価値がある。
窪田:これって大規模だから問題になっている?広島土砂災害とかでは問題になっていない。何万という単位。
田中:むしろ空いているところが埋まってよかったというくらいですね。

田中正人(たなか・まさと)
株式会社都市調査計画事務所代表、NPO法人リスクデザイン研究所理事長
井本佐保里(いもと・さおり)
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻/復興デザイン研究体・助教