復興の防災計画 ―地域が生き残るために―

牧紀男先生(京都大学 防災研究所)

2014年10月7日 18:30~20:30 東京大学本郷キャンパス 工学部14号館2階222
参加自由・予約不要

1.オープニング

窪田――牧先生は、最近『復興の防災計画』という本を上梓された。われわれ都市計画分野は防災をいかにまちづくりに反映させていくかを考えていて、防災の専門家は防災を減災に繋げていくにはどうするかを考えていると思う。牧先生は、さらに、防災をいかに復興として捉えていけるか考えている。それが新しいパースペクティブで、未来に向けてのメッセージのように感じ、本日お願いした。本のサブタイトルは「巨大災害に向けて」だが、今回のために、「地域が生き残るために」というサブタイトルをいただいた。地域がいかに存続していくかということは、地域デザイン研究会にとって非常に重要なテーマであると考えている。

2.牧先生からの講義

復興とは

まずは復興とは何か考えたい。辞書を引くと、復旧ではなく復興とは、前の状態より良くなることをいう。では、どういう状態になったら復興というか。
日本には復興とついた団体はいくつかある。そのひとつ日本復興団体に復興とは何かを定義しようというワーキングができるくらい共通認識がない。
東日本大震災から4年になるが、そこにお住まいの方が、「私にとってどのような状態を復興というんだろう」ということすら難しい。

阪神淡路大震災

*研究のきっかけ

関西出身で、阪神淡路大震災が経緯となった。これがなければ私が防災研究をすることはなかった。
出席している大月さんと知り合いなのは、昔は、建築計画をやっていて仮設住宅の住まい方を研究していたから。仮設住宅で変な住まい方をしているのが面白いと感じ研究しようと思った。
しかし、神戸を見ていて仮設住宅だけでは解決されないと思ったことが今の原点になっている。

*神戸からの示唆 – 復興のタイムスパン

神戸は復興まで10年かかったが、4年目くらいが一番しんどかった。何も変わらないから。
災害直後は「助かってよかった」と思う、これを失見当期という。
その後、避難所に行って大変。避難所は神戸も東北も8ヶ月くらい。これはどちらも同じ。
さらに、仮設住宅に移ってからが大変で、場面転換が長くなる。神戸では5年間。東日本大震災では8〜9年。
今までぱっぱと場面が変わっていたものがなくなってくる。場面転換がなくなってくるのは2,3年目くらいから。
東日本大震災をみると、この3年間一生懸命がんばって、瓦礫はなくなっているし、山を見ると山はなくなって盛土はできているが、果たして何か変わったんだろうかというと何も変わっていない。これが2,3,4,5,6年くらいか。公営に行かれる方はもう少し前に変わるが、ここらへんがしんどい。
避難所がなくなる、瓦礫がなくなるというのは神戸も東北も同じだった。しかし、その後はぜんぜん違ってくる。

*神戸からの示唆 – 仮設住宅のその後

もうひとつ、神戸での体験がどうだったかというと、公営住宅が供給されて住宅再建まで5年、実際にはもう少し長くなる。ライフライン1年半、都市計画が10年というモデル。
仮設住宅を5年以上使ったことはないので、東日本大震災ではどうするのかがひとつ問題になっている。

東日本大震災と過去の三陸津波

*被災体験を発信すること

神戸で5年目に復興検証したときに「何が重要でしたか?」と聞くと、すまい・つながり・まちという答えがあった。すまいとつながりが大きく出た。東北でも同じような調査をされた方がいて、同じような結果が出た。
東北と神戸とで違うのは、神戸では都市計画区域外が少なく、また東日本大震災では、ほぼ100%の方が住宅再建しなければならなかった。
神戸で8年目に同じ質問をした。家の供給は終わっていたので「すまい」は出てこない。人生観が変わった、被災体験を発信するというのが出てきた。
これも東北と神戸でかなり違う。東日本大震災では、震災体験を伝えるというのが、早く出てきた。直後に神戸でも私らがやっていたが「聞かんといて」と言われていた。今回「早いこと残しましょうよ」と、外の人が言いすぎて急ぎすぎたかもしれない。「人と未来防災センター」ができたのは7年目。

*昭和三陸津波との共通点

東北の復興という観点から昭和三陸大津波を振り返ると、あのときはフィジカルなものは1年で基本的にできた。やっていることは今回とあまり変わらない。今回も都市的集落は現地復興、漁村集落は高台移転なので、基本的には昭和と今回は変わらない。
ポイントは、今回とこの前とで違うところ。
違いの一つは、前(明治の三陸津波または昭和の三陸津波)よりも高いところに集落を再建する。
もう一つは、昔はお金がないのと技術的に無理なので、防潮堤が高くない。盛土と言ってもそんな高くない。高台に移って降りて来なかった人は今回はセーフ、ただ、一部流されてしまったところもある。例えば、釜石の両石地区。高台移転が全部流された。陸前高田の長部も、盛土して防潮堤も作ったが全部やられた。
しかし、基本的には高台に移った人はセーフだったので、基本的な設計コンセプトは前回と同じ。

*復興計画策定のスピード

東日本大震災の復興について、復興計画を作るスピードが遅いと言われるが、別に遅くはない。イメージとしては、3ヶ月後にビジョン。宮城は非常に早い。岩手が1ヶ月目にペラ一枚を出したが、まあそんなものだと思う。6ヶ月で具体の計画が入ったものが出てくる感じ。
ビジョンを示すのは良いが、まず市町村の計画が出て、それを踏まえて県の計画が来るべき。県は復興の主体ではないので、サポートする形で出るべき。今回県はバタバタで市町村を放っておいて県の計画を作った。何でか聞くと議会がうるさくてと言っていた。
後で話すが、県や市町村の作る復興計画は何の意味もない。無くてもできる。今回は復興庁のお金ももらえたので二段構えになったというのが今までと違う。

*初めての科学的な被害想定にもとづく計画

今日地震研で共同研究の話をしていたが、防災屋からすると、科学的な被害想定に基づく復興土地利用計画を今回初めて行ったと認識している。今までは、地盤の悪いところに再建しないようにしようとか、広島もそうだが、土砂災害が起こったら使わないようにしようとか。
提供された情報としては、ひとつは過去と同じ、過去の津波浸水深と高潮想定。過去の津波高さをプロットして比べて、その中の一番高いところからプラス1mなどとする。これは決め事なので議論の余地がない。そのうえで地元が要らないと言ったら防潮堤なし、という考え方はあり。

もうひとつ、盛土を考えるときの、東日本大震災の震源モデルにおける津波浸水深の問題がある。今からぶり返して高さを再考しようということではないが。
まず一つは、震源モデルはコンサルによっても場所によっても違う。場所によって津波をおこす水を持ち上げるシミュレーションが違う。
二つ目は、津波の浸水深さ。浸水深が2m以下は建てても良いということだが、これも動く。コンサルに頼めばいくらでも動かせる、本当は幅がかなりある。一番動かそうとしたら粗密係数をいじる。信頼性は研究途中。
三つ目は、計画を変更したら計算しなおさなくてはいけないこと。

また、人が危険なところに住まないなら防潮堤要らんという議論もあるが、本来は、総合的にシミュレーション結果をみて、これに防潮堤を置いて盛土してそれでどうしようという議論があってもいい。
防潮堤が悪者にされがちだが、防潮堤がないと家は守れない。命は守れるが。そういう意味では防潮堤は役立つし、こういうふうに決めたのは非常に先進的、初めてのことだった。
シミュレーションの使い方とか、逆にまちづくりをする側の理解が不十分だったので様々な問題が生じた。

復興計画

*復興計画の意義

今日は「復興の防災計画」がテーマなので次は復興計画の話を。
復興計画はなくてもできる。今は復興整備計画とか特区の制度があるので、ないと難しい
たとえば、復興計画なしで復興しているところもある。新潟県中越地震のときの刈羽村、お金が潤沢にあれば特に復興計画は要らない。聞いてみたら「要らん」と言われた。
復興の状態の定義はない。だから、復興計画とは復興の状態を定義するもの、と私は考えている。住民と一緒につくって、「こういう状態になったら、復興と呼びましょう」というもの。住民たちとの共通意識。
ただ、それは時代とともに変わっている。そもそもどういう復興計画が作られたか。
戦前は関東大震災や戦災復興計画。基本的に、1960年代くらいまではフィジカルな復興計画。
伊勢湾台風の復興計画は、高度経済成長期なので勢いや夢がある。工業団地をつくろうとか、これを機会にお金をもらってまちとして大きくなろう、みたいな。
70年代になると都市計画法や地方自治法の改正があって、基本的に大きな災害はないが、酒田の大火などは区画整理で住民新聞を配って意見を聞く、みたいなことがあった。
80年代になると、三宅山の噴火。初めて生活再建という言葉がでる。
90年代になると生活再建が大きな課題。雲仙普賢岳、北海道南西沖地震など。そして阪神淡路大震災。
注目すべきは、今まで小さい被害のところはあまり復興計画を作らなかったが、神戸の地震では、全半壊世帯率8.2%など小さい集落でもつくるようになった。大阪の豊中市でも、復興計画を作った。

*復興計画策定のめやす

どれだけの被害を受けたら復興計画つくるのか?実はよくわからない。
法定の特区の計画をどこの自治体がつくっているのかは復興庁のホームページ見れば分かるが、自主的なのは分からない。
神戸では、全半壊世帯率が8%くらいを超えるとつくられた。東北の場合は海沿いの被害が非道かったが、8%というと多いか?まだあまり研究していない。

計画の内容を分けると大きくは2つ。
災害を受けたので災害に強いまちづくりをしましょうというので、防災まちづくり+復旧計画。これがあまり被害を受けていないところ。
ものすごい大きな被害を受けると、いわゆる総合計画のような、まちのビジョンを書き換える大きな計画が作られる。これが今回話したいところ。
ただ、尼崎は例外で、防災まちづくり+復旧計画をつくっている、そういうところもあった。

みなさんが具体的な話をしているのは、地域レベル。市町村では、4,5年目になると総合計画をつくる。
震災復興とまちづくりというのを、どこかで一緒にしないといけない。これが今後5年目くらいからのすごく大きな課題。

今から10年くらい前のデータだが、復興計画策定の「めやす」は以下の通り。
全半壊世帯10%程度(市部) 「防災まちづくり」+「復旧」型の復興計画を策定
全半壊世帯20%以上(市部) 「総合計画」型復興計画を策定

今回東北について調べてみると、全然違った。上記は地震被害で、津波被害は面的にぐしゃっと行われるので、当てはまらない。八戸が復興計画作っていたりする。面的な被害だと、5%ほどの全半壊でも総合型になる。

*小千谷市の事例 – モニタリングツールとしての復興計画

じゃあ、まちの思いを形にする復興計画をどうつくるか。
10年前の小千谷市では、まち全体に網をかける復興計画になった。地域全体での復興計画とは若干違う。
WS形式で案を出して、アイデアを整理する形で復興計画を策定していった。
「よりよい町にするには?」「こんな小千谷市にしたい!」など。
良いと思うのは、まちが有名になるチャンスでもあること。今までは小千谷市なんて読めないし、ちに点々なんてワープロでも打てないし。最初は職員WS、それを広げて、市民WSは108名。皆で大きなビジョンをつくっていくというのをずっとやっていった。3,4ヶ月目では、被災者根性を捨てることが話されている。

まずは市民の生活復興、産業経済復興、ライフライン復興が必要、コミュニティの強化みたいな大きなビジョンを出した後で、細かいことを決めていく。最後投票して、優先的にこれからいきましょう、というのを5回くらいやっている。

ただ、復興計画があるからといってお金がつくわけではない。では何が良いのか?復興は遅々としているので、どこまで復興したのかは分からない。アンケート調査をやると、私のところは復興していない、という意見もでてしまう。
進捗管理ができないだろうか。復興の進捗管理としての復興計画という意味も重要。シンクタンクが作ったものでは意味が無い。みんなで集まって打ち込むというプロセスを経た復興計画は、復興をモニタリングする非常に重要なツールとなる。復興がちゃんとうまく行っているのかみんなで評価する意味で復興計画はすごくいい。

復興計画要らんのかというと私は逆に要ると思う。お金のためではなく、復興とはどういうことなのかがわからないので、みんなで「復興とはこうだ」と決めて、それに向うために必要なこと、重要なこと。ポストイット出して、決めて行くのを確認していくことが重要。

神戸の時の復興検証を東北でやっている。岩手県はまじめに、復興計画の達成状況でモニタリングしている。宮城はむしろアウトプット、すなわち事業の進捗で復興をモニタリングをしている。

小千谷市はまじめ。10年間復興評価をやりつづけた。みんなでつくったのでみんなで検証しましょうということで、今月の23日に最終的な報告書がオープンになる。
4年目に1回目の検証をして、参加者51名。結構来てくれた。奇跡的な多さだった。
市民と一緒につくっている、中間評価であることを前提条件として、自治体は事業を進めているか、住民は頑張っているのか、ということを評価している。

7年後に2011年、復興評価をやって復興はほぼ完成した、しかし、災害前からの課題はおそらくどうしても残る。大槌もそうだが、人口減少や少子高齢化などは震災に拠る影響かは分からない。

では、どうやって評価しているか。まず人口。ずっと長期低落傾向なのは間違いない。
面白いのはアンケート調査で、復興計画を尋ねる。復興計画に書いてある内容に対して、4年目、7年目、9年目と評価していく。例えば、復興が道半ば、みたいな評価はずっと減ってきている。若者の定着なども△だが進んできている。まだ復興していないと言う方もいるが、データとしてみるとだんだんと達成しているのはわかる。

最後10年目どうしたか。年表を使って、小千谷が震災をどのように乗り越えたのか、よりよいまちになったのか、検証した。
ええなあと思ったのは、地方都市なので劇的にフィジカルな状況が変わるわけではないので、WSは10年前はダメといっていたが、今は全然ok。ボスと新参者が議論できるまちになったのが10年の変化。これが10年での一番大きな変化ではないか。こういうことが、今後を考える上で重要。

防災計画

*ディザスター・マネジメント

「復興の防災計画」で復興計画を話した、では防災計画とは何か。
防災を考えるときに考えること。


▲ 応急対応、復旧復興、被害抑制、被害軽減。『復興の防災計画』69pの図を基に作成。上はソフト、下はハードの対策。右は事後対策、左は事前対策。という四象限で構成されている。

災害が起きると、直後は人命救助(右上)、復旧復興でまちが前より強くなって、さらにソフトな対策も進めておいて、また災害が起きて対応をやって、みたいなものをぐるぐる回していくとまちが強くなる。
これを、ディザスターマネジメント・サイクルという。

どうやってソフトとハードを組み合わせるかというと、よく起きる災害はハードで止めてしまおう、年に一回川が溢れるのと30年に一度津波というレベルは、ハードで止めてしまう。1000年に一回みたいなものはソフト、逃げましょう、という考え方。

*レジリエンスとは

ソフト、ハードもそれぞれ2つずつある。
君子危うきに近寄らずでそもそも津波の無いところに行くのは「回避」
しかし、それも大変なので、防潮堤を造るのは「軽減」
それでもお金がかかるので、保険でお金をもらえたら建て直せるし、というのは「転嫁」
さらにそれでもお金かかるので、リュックもって逃げようというのは「受容」
これが、レジリエンスを高めると、最近言われている考え方。

今まで言われていたのは、災害による被害とは何か、私たち業界でどう理解しているかというと、今まで通り100万円稼いでいたのが、ゼロとか60万円になっちゃったというときに、災害がなければ稼げたものは損したものといえる。これをどう減らすか。一つは工学的に考えると、被害の度合いを減らすこと。もう一つは、復旧速度を上げれば被害が減らせる。
つまり、被害を減らすこと=抵抗力を高めること+(回復力を高める=復旧速度を上げること)。
これが防災で言うレジリエンス。回復力だけでレジリエンスと言っているわけではない。抵抗力を高めるのも当然レジリエンス。このモデルは変わったわけではない。被害抑止と被害軽減と言っていたものをひとつにした。今は、私達はこうやって防災計画を説明している。

*法定計画としての防災計画と事前復興計画

で、防災計画は2つある。
1つは法定計画。災害対策基本法で地域防災計画を立てなさいと言われている。関西と関東で使い方が違う。関西では災害対策マニュアルとして使う。東京は、ハード整備が地域防災計画に書いてある。法定なので書くが、関西ではやらない。
敵となる災害は、関西は明確で南海トラフ。今は国土強靭化計画がはやり。関東は千葉県と山梨県でつくっているようだ。最初は行政職員によるWSでつくるしかないと思う。小千谷市と同じ。

そして、事前復興計画。まず、なぜつくるのがいいのか。
前の状態に戻ることを考えると、1960年代の災害は楽だったといえる。伊勢湾台風や新潟地震は、被害があっても高度成長期なので放っておいたら元に戻る。神戸がちょっとしんどいねと言っていたのは安定成長期だったので、がんばらないといけなかった。新潟や今回は下向きの中でなので、上向きにもどすのはなかなかしんどい。

(本に載っていないNewData!)
岩手は8ヶ月くらい減って、その中でも20-24歳の人と、その子ども世代が減っている。
日本の国土をクラスター分析すると3つに別れる(地域類型)。
持続(子どもがいる)・依存(20-30歳代が少ない。地方都市。要するに他の都市に依存)・限界
(依存の説明)。
自分は和歌山出身で、高校まではいたが、そのあと出る。帰りたいと思っても仕事が無い。それが他の地域に依存しているということ。
東北の集落や自治体の状況を見てみると、そんなに高齢化というわけでもなかった。緑(=持続)もそこそこの数がある。
これを今の人口構成のまま2030年に延ばして考えると、そんなに赤(=依存)かったり黒(=限界)かったりすることもない。しかし、二十歳近辺が抜けてしまうことは与えるインパクトは非常に大きい。状況はかなり深刻。

同じことを神戸でもやった。災害が地域にどのような状況を与えているのか。1990年のデータを2005年にもっていって再現した。擬似的に15歳年齢をとらせた。
このシミュレーションと実際の今を比べると、震災がプラスの影響を与えているのはどこだろう?その逆は?というのがわかる。
引き算したグラフを見てみると、震災の影響で良くなったエリアは、まちなか。中央区。高層マンションが建って人口が若返っている。これは震災の影響ではない気もする。
あとは長田の再開発をやったところは1ブロックだけ若い人が増えている。そのとばっちりか、周辺は濃い赤になっている(マイナスに影響しているところ)。濃赤は震災がマイナスに働いているところで、長田の上や西の方。

神戸はプラスに出ているところもあった。中越はマイナスにしかならないと思っていた。山古志は濃い赤が出ている。もっと全部真っ赤かになると思っていた。そうではなくて、中心市街地みたいなところは、震災で何が起きたのかよくわからないが、人口は増えている。また、長岡の南の方は人口がえらい増えている。
いづれにしても、震災の影響を考えてさらに人口減少を考えて、震災の前から計画を立てておくのが重要だと考えた。

昔、参加型の防災計画づくりをやっていて、大槌もそうだし、コミュニティもそうだろうと思うが、災害前に、うちの町をどういう町にしようかと考えているか、考えていることが非常に重要。
事前復興計画とは防災計画。それをつくるにあたっても地域の将来像がないとつくれない。ないならつくらないと。
人が大事だと思っていることを壊してみせる、で、どうする?と問いかける。次は実行計画をつくるときに、災害前にやることと後にやることを分ける。

事前復興計画が必要なところは膨大、例えば、和歌山の漁港リスト(一種、二種、三種)。和歌山だけでこんなにある。徳島にも高知にも、もっとある。
景色は非常にきれいなところなので、岩手のお仕事が終わった頃には是非和歌山へ、岩手の知見を持って来てほしい。はも美味しいよ!ただ、漁業の規模は全然ちがう、岩手に比べると和歌山は全然だめ。
養殖もやってないし、釣り船をだしてやる感じ。
そんな感じでちょうど1時間経ちました!

3.ディスカッサントによる質疑

*黒瀬武史さん(都市工学専攻・都市デザイン研究室助教)

本を読んで気になったところを、2つ話題提供。1つ目は、復興を日常の計画へどう統合していけるか。自治体と住民との関係、災害前の自発的な備えをあまり誘導しない。2つ目は東日本大震災の復興計画と大槌町の取り組み。赤浜は防潮堤を嵩上げしない選択。吉里吉里は、防潮堤・二線堤となる国道・区画整理による盛土の三重の取り組み。

1つ目は、基本的には日本の都市計画では、被害抑止が総合化されてこなかった。
アメリカの面白い取組として、事前に頑張ってこなかった自治体には、国からの補助が少ないというペナルティをしている。
復旧時間に着目した事前復興も重要だと思う。自分は、赤浜に関わって来て、復旧時間をイメージして現地に入れなかったという反省がある。住んでいる方の気持ちがどんどん変わっていく。そのような事態を想定できていなかった。それに対して、科学的な取り組みが行われた初めての災害という話があったが、時間軸をどう考えるかが重要だと思った。
また、まちの大切な場所を壊してみせるというのはまさに大事だと思う。被害想定を実施しても、場所とか被害像の具体的なイメージがなければプランにつながらない。

2つ目は、復興計画を考える際に、100%補助なので、もらえるときにはもらっておこう、せっかくだったら最高グレードのまちにしたいという考え方が、自治体も住民にもあった。そのせいで義援金がそれぞれの世帯に行かなかった。ひいては国の資金も全体には行かなくなるだろう。
優先順位や復興資金の流れを事前に話し合っておかなければ、また今回みたいに政治の道具になってしまうのではないだろうか。
アメリカの取組が良いかはわからないが、今回は事業になるかならないかで、復興計画が左右された。

時間軸の上で、施設ごとに、必要になる時間、復旧できる時間を比較すると、実は一番必要なときにサービスが提供されていない。復興のどの時期に何が重要かということを丁寧にみていくのが重要。
需要があったときに、周辺のサポートで何とかなるところと、そうでないところを時間軸でみていかないと、出来あがったところで、誰も住まない住宅がたくさんできたり、ということになる。
事前に話し合っておかないと、いざ地震が起きた時に、専門家が住民に説明できない。もしも、専門家が冷静に判断できたとしても、住民に冷静に説明もしなければならない。

最後、東日本大震災の話。ゆっくりとした復興は良いなと思う反面、大槌では、ゆっくりとした先にはなくなっているかもしれないという危機感を持たざるをえない。古い手法として、盛土をするための制度として区画整理をしなければならない、さらには原位置換地をしなければならない、という不合理。大槌に関して言えば、初めて住民主体でまちづくりをやれと言われて、最初はとにかく安全にしたいという想いもあったり、今度はやっぱり山の上は不便かなと思ったり、と変わってくる。とにかく速く復興してほしい、という変化も。そういう変化を専門家がどう捉えれば良いか、という問題がある。地区外に仮設住宅が多かった方が速く進む。しかし地元の方は地区内の仮設住宅で住んだ方が良いと考えていた。時間軸を見通して、ある種のがまんを最初にした方が実は早く速いということもある。いざ被災した状態で冷静な議論ができるのか、事前にしておく必要がある。

ここからは吉里吉里と赤浜の具体的な話を、山田さんと上條さんからそれぞれしていただいて、そこから議論に移りたいと思う。

*山田裕貴さん(eau所属:吉里吉里担当)

仕事としては公共空間のデザインをこれまでやってきた。都市計画の仕事は今回が初めて。

被害状況としては、国道45号を中心に全体がやられている。
2011年10−11月に二週間に一度、四回WSをやった。住民の前で計画を3パターン説明し、パターン1が選ばれた。防潮堤を10mくらいで作りながら、国道を内側に寄せて、基本的にはまちをコンパクトにする案。防集団地である高台移転は、既存の市街地の空いているところにはめ込んでいく、という計画になった。
このとき、住民と技術者がどう考えていたかというと、基本的には津波に関する防御をどうするか、が重要で、結果的には、防潮堤、盛土、一部高台移転の複合的なものとなった。

大槌の場合は各地区に学識経験者がコーディネーターとしてはりついて、パターンが決まった後の2012年2月に、コーディネーターを中心に全体のコンセプトがつくられていった。これをもとに今後の計画が進んでいくのだが、このときが一番しんどい時期だった。住民はとにかく速く再建したい、復興してくれ、ということを言い出す段階だった。
そのとき何をしていたかというと、もう少し全体のコンセプトを考えつつも、技術的な検討や他の機関との調整をしていた。国道をどうやって移すかなどかなり膨大な手続きや調整があって、スピードをあげるのは難しかった。

2013年3月にデザインノートをつくった(A3配布資料)。大枠が決まった段階でどういうまちを描いていくのか、ということに着手した。吉里吉里のデザインノートの一枚目、色んなコンセプトや絵(風景のスケッチ)があって、住民と話しながら決めた。新しく区画整理でつくるまちの真ん中の公民館のイメージとか、吉里吉里で一番大事な「海の軸」のイメージとか、海沿いの広場とか、国道と防潮堤の隙間を埋める(などの細かいところまでイメージを膨らませた)。
この頃、新しいまちの姿を考え始めた時期。
吉里吉里の場合、防集団地の入居者の募集が一部で既に始まっていたり、国道がつけ変わりはじめた。
工事が始まっていたので、復興のスピード感はあって、新しいまちを考えることはできた。

時間軸で話すと、被災して1年後くらいが吉里吉里の場合は一番苦しかった。
個人的な悩みとしては、
・換地の難しさ
・誰がコントロールしているのか(全体を把握している人はいないけれど、とにかく進んで行く)
・現実として、どのようなまちが立ち現れるのか
現地換地という個人の意志が優先されつつ、全体としてはコミュニティとして立案していく。さらには全体を誰が把握しているのかわからないまま進んでいく。あとは、実際にどういうまちが建ち現れるか未だに分からない、未だに不確定な部分があるというのが現状。

*上條慎司さん(小野寺康都市設計事務所所属:赤浜担当)

赤浜には、被災した直後から窪田・黒瀬と一緒に計画に携わってきた。赤浜で、計画の理想をどういうところに置いて、どううまくいかなかったなどを説明したい。

【防潮堤と盛り土】
まずは被災して3,4ヶ月後に住民の方々が作成した模型があった。
防潮堤があるライン(もとの高さが6.4m)をそのままの高さにしてほしい、と、住民が決めたことが赤浜の特徴。県道の内側を盛土して、山を多少引いて住宅地にしている。当初の計画は、住民の方の意志を尊重してきた。
赤浜は、岩手では数少ない、防潮堤の高さを元のままにした集落。住民の声と、岩手県では防潮堤の高さをある程度自由に持てるように設定してくれていたおかげでで成立した。
住民の有志で集まって計画されて、それに周りの人がついてきた感じで、計画案が進んでいった。

今考えるともっと色々できたと思うことがある。
例えば、シミュレーション上、盛土は6-7mなどにしているが、防潮堤はもし1-2m嵩上げすれば盛土は3-4m下げられるなど、そういう融通が効くと良かった。
アイデアは持っていたが実際には不可能で、シミュレーションは一回やるのに2ヶ月とかかかるし、お金の問題もあり、一年に何回かしかできなかった。防潮堤は被災して1年後くらいに高さを決めなければならなかったので、防潮堤の高さをフィックスして、あとは盛土の高さで対応するしかなかった。

もう一点が、住民の方々の主張で、防潮堤を完全に閉じてほしいとなった。
普通は海岸に出るために陸閘をつけるが、陸閘をつけないで欲しいというのが当時の住民の想いだった。多くの消防団員などが陸閘を閉めるために亡くなったため。そうすると防潮堤の外に出るために、ある程度の高さで道路を上げておいて、そこから外に降りる道路をつけないといけなかった。
ただ、被災から2年半ぐらい経ったら、やはり不便だし開けても良い、という話になってきた。そのときはすでに道路の計画は変えられない状況になっていて、道路が高いところに走ったまま陸閘を開けなければならないことになった。
なので、はじめから住民の方の意向を読むのは非常に難しいが、柔軟にできると良かった。

【コンパクト化】
二点目は、(大槌全体に共通だが)まちをどうコンパクトにつくるか。人口減少も進むし、そんなに人が戻ってくることも考えづらいので、当初からなるべくコンパクトにしたいという思いがあった。
考え方としては、比較的盛土量が少なくて済むところを盛土して、近くから山を削って持ってくるということを原則とした。
しかし、盛土する手法が今回は区画整理事業しかなかった。区画整理事業は原位置換地が基本なので、もともと低地部だった方は高台に移らなければならなかった。高台は防集事業でやっているが、当初想定していたよりも大きな画地面積を用意する必要があり、総体としての開発面積が膨らみ、集落からやや離れた場所も切土造成する必要が生じた。つまり、外の高台に移らないといけなくなる区画整理事業という手法に縛られてしまって、コンパクトに進むことができなかった。

あとは、仮設住宅の問題。
仮設住宅は3カ所、平たい場所に建ててしまった。そうすると、その場所に計画しようとしても、仮設の人に一回引っ越してもらって、計画して、また入ってもらうなど、なかなかめんどくさい。
仮設住宅のある場所を新たに復興する対象とできなかったので、最終的にまちの中心に近い場所に空地が残ってしまうという問題が生じる。

【道路と広場】
大槌で共通しているが、日常メインで使う場所が避難路として機能する、ということを主眼としてきた。
具体的には赤浜で言うと、八幡宮や三日月神社、お寺をめがけて逃げるなど。その骨格を重視して当初から計画した。そこで、神社や寺の前に公園を置き、そこから海が見えるように道路をひいた。
地区の骨格の道路について、その先に避難のホール、公民館を計画するやりかたでやっていた。最初から絶対これは守ろうと思って、骨格は維持してきている。

しかし難しい局面もあり、例えば道路全部が6m幅になっているが、もっと融通を効かせて4mもありということで対応したかった。区画整理事業としての一般的な考え方、また利便性・維持管理に配慮した結果、基本的には6m幅員で統一することになった。そうすると、区画整理で土地が限られている中で、道路が増えると、個人の宅地が優先され公園が削られてしまう。守らなきゃいけないものが守れなくなってしまう。
今のところは、難点をクリアしながら、守って来てはいるが、常に土地の問題が絡んで、コンセプトを維持するのが難しい。

4.ディスカッサントと牧先生との議論

黒瀬――まずは東日本大震災の話から。その後、事前復興の話をしたい。
2人に共通していたのは、ある種の時間軸を住民の方と共有しながら進んでいくのが難しいということ。
そのときどきの住民の方の考えと、実際に超えられない壁というのをどうやって共有していくのか、今まで神戸や新潟でどのように理解を共有していったのか、というところ。

――時間軸を考えるのはもしかして無理なのではないか。
仮設住宅をつくる際に、学校、中心市街地の公共用地を使ってはいけません、と申し上げたが、「そんなことしたら住民は減っちゃうんだよ」と言われた。専門家中の専門家でも理解してもらえない。ましてや被災した方に、直後にお話して理解して頂くのはほぼムリだろう。
結論としては、災害前からある程度、デザインノート位のディティールの絵を描いておかないと難しいのではないか。
神戸も戦後初めての経験だったので、10年もかかるとは思っていなかった。神戸の時間モデルは、戦災復興をやってきた技術者がおられて、区画整理の時間感はもっていた。新潟の場合は、時間感はどうだったかな。神戸の時間感を共有していたような気がする。
東日本大震災は、被害の規模が非常に大きかったこともあって、なかなかご理解を頂けなかった。
住民の方の希望が変わっていくことはいつも起こっていることで、プランナー側がそれを読みこまないといけない。プランナー側も頭かっかときているので。神戸の方もみんな傷ついているのに、神戸とは違いますから、と言われるなど、専門家側も直後に言われたって、理解できなかったのでは。

窪田――戦後かなり平和な時代が続いた。阪神淡路と東日本大震災が続いて、規模の面ではダントツに大きかった。次はどうなのか。神戸の方たちがせっかく来てくれてアドバイスをしてくれていたのに現場はうまく活かせなかった、というのは次、例えば南海トラフにどう活かせるか。

――今やっているのは談合しようということ。今回の東日本大震災でも人気のある被災地というのがある。次はしっかりと談合して、ちゃんと各地に入って欲しい。東京は岩手とか宮城と、これまでもおつきあいをしてきた土壌もあるので、それが重要だったというところもある。これは復興の話ではなく、通常のまちづくりの延長にある。例えば、早稲田の古谷先生がやっている公営住宅(田野畑)のように、ずっとお付き合いされてたところに入ったところはうまくいっている。
静岡、三重ぐらいは関東圏か、それより西は関西対応か。関西はまちづくりの先生がいない、都市計画というか、建築自体が阪大京大も厳しい。

黒瀬――一般的なシミュレーションの問題は説明いただいたが、住民の方と共有していって、やり直しできないという状況は解消されるのか、それとも相当数の代替案を並べた後にシミュレーションをかけるしかないのか。非常に科学的でありながら科学的でないということを住民から指摘されてきたが、どうやったら次に進んでいけるか。もしくは、中庸をとりたいという議論ができなかった。それはどういうところに原因があるか。

――まちづくり側がシミュレーションの技術に対して不慣れであったこと、金儲けの道具なのでツールを作ろうと思っていたことが原因ではないか。
今日地震研で何を話していたのかというと、震源モデルは本当はわからないが、まちづくりの側で浸水域を決めて、みんなでいじり直して、それを逆にシミュレーションに戻せば震源モデルに戻るので、それがおかしいか、ということをみてもらうのはありですか?ということを聞いた。そういうのもありかもね、となってしまっていた。それほどまでに線は暴れる。
だから、技術的な問題もあるが、あとは情報の出し方。シミュレーションの途中でパラメータを決めているので、バッファーを決めてください、とお願いしている。

黒瀬――プランナーがシミュレーションの枠組みに慣れながら、中庸ぐらいもあり得るということをちゃんといえるようになると良い。被災直後に土木系としてどーんとやってしまうのではなくて。

――大船渡は家田先生がおられて、ブレることも知っていた。まちで決めてしまっていいよね、と言って決めてしまった。

黒瀬――シミュレーション結果に縛られすぎて、つながる道路もつながらない、というのが実際にありましたからね。
もう少し都市側の話しとして、盛土と切り土で全く違う事業制度を使わなくてはならない。結局は事業制度に付随するルールを、実現のためには適応しなくてはならなくなっていた。

――都市計画区域だったんですか?赤浜は?

黒瀬――赤浜は都市計画区域。奥の山は入っていないが。

――漁集のエリアは都市計画区域外だったが、実は漁集が使いやすかったのかも。盛土もできるし道路も6mにならないし。ただし逆に漁集を使ってしまうと、事業用地しか買収できない問題があるが。都市計画事業を使うと減歩が入るので、宅地改良を小規模でやっていくというのもあったかも。
70億円の都市計画の調査が入ったので、何となく都市計画でということになったのだろうが。

黒瀬――一部漁集でやる背景には、宅地の土地所有者との交渉という事情もあった。そのときの役場の判断でそうなった。最初から平たく見ていれば、全部漁集でやるという判断もありえた。漁集の情報が最初のうちはあまりなかった。
漁集って何でもできるらしいけれど何やっていいのかわからない、というのが1年間くらいあって、そのあと漁集系のコンサルの方とお会いした。花露辺等はうまくできていると思う。

上條――ただ漁集だと一戸あたり3000万円までとなるので、使えないところもあった。

黒瀬――赤浜は被災者一人あたりの(都市側の)事業費は高いかもしれない(防潮堤の部分を足したら、そうでもないかもしれないが)。なかなか被災地ではお金の話ができないが、どの程度投資できるか、していいものか。単費がなければ何でもありという状況が変われば、たとえば、県道側だけ嵩上げしようとか、整理がついた部分はあったかも知れない。
赤浜と吉里吉里の割合等の視点があれば、削減の方向性も見えてきたはずだが、その方向性にもならない。これに対して、国とか県から有効な方法はありうるのか。

―― たとえば私らが研究費助成に申し込むようなもので、たとえば0.5%の負担が自治体であったならば、削減とか適正規模を考えることもあったかも。100%負担というのは科研費の申請を書くような感じ。モラル・ハザードかなとも思う。
次を考えると、今回これをやったらよかったと思うことがある。大きなNGO(NPO)が仮設住宅を建てたいとなって課題って何?となったとき、日本は政府が100%仮設住宅を供給して、入居者選定も市役所がやる。仮設住宅をNGOが建てるとき、そのスキームに乗るのか、それとも、それは自分でやんねん、と喧嘩売るかたちではいるか。喧嘩を売るかたちで入って、10億、20億円を動かせるNGOだったら集落とがっつり組んでしまって、国なり県なりの仮設はいらない、となったら面白かった。開発途上国の復興はそういうやり方をしている。吉里吉里だったらありかも。

上條――しかし実際の事業費は桁違い。

――となると、も少し小さい集落でかな。日本は今まで国費でやって来たが、そんな時代ではない。
NPOやNGOも目立ってなんぼなので、今から準備させて、ワールドビジョンとかカリタス等なら出来るかも。

黒瀬――確かに薄く入るより一箇所で濃く入るほうが目立つ。

――薄く入るよりも、ぐっと濃く入るのはあり。コミュニティの腕の見せ所でもある。これは頑張ったところが報われるモデルでもある。

黒瀬――事前復興の話になってきたが、モラル・ハザードについての今の話もふまえて、自治体の負担があると、住民も、私のまちではこれは無理という感覚をもつことにつながる。

防災計画から事前復興につながるのが良いのか、普通の総合計画等に防災というレイヤーを入れるのか?

――私は絶対に後者だと思う。防災のための計画が先にあるのは本末転倒。防災は手段に過ぎない。あくまでも良いまちをつくるということが重要で、それを邪魔するのが、環境問題や災害ということ。

災害の日本の弱点は、火災というと都市計画担当、地震は交通担当、水は土木担当となってしまう。
防潮堤がなぜ先に決まるのか、それは水が来ない前提でまちづくりをしますという流れがある。土木の方で水は止めてあげます、というのがある。それがおかしい。水も土地利用とか都市計画の方で扱いたいけど、実際に扱ってみると、よくわからなくて、という状況になってしまっている。もう少し、火災だけではなくて水とか土砂とどうつき合うのか、都市計画やまちづくりが考えていかなくてはならない。

黒瀬――牧先生の本で、サンフランシスコのNPO(SPUR)では、どこが地滑りが起きそうかという地図をしっかり読み込んで、この地区の被害像とか数値を細かく出すというのを最初にやっているが、日本でもそういうことを今後やっていけるのか。今の都市計画は安全を前提にやってしまっている。どういうところから切り込んでいけば良いのか。

――SPURというのは防災系のシンクタンクではない。デザイン系の、サンフランシスコの街並みをどうおしゃれにしていこうかと考えるような、San Francisco Planning Urban Research Associationなので、防災のニオイは全くしない。センスがいい。災害のことは防災屋さんにおまかせ、ではなくて、まちづくりを考える上でそういう要素があってもいいよね、と。おしゃれなんですよね、ここ。日本では防災って言うとデザインがダサい。なんとなく楽しくて、説教臭くなくできるようになるといい。

黒瀬――逃げ切れれば、事前に防災のことを頑張るよりも結果として得ではないかという考えにどう対応すべきか。事前に頑張った人を考慮する仕組みとして、どういうものが考えられるか。

――ミティゲーション・グラント。結局ぐだぐだになってしまったが。本質的な議論になるが、災害が起こる前からまちづくりをがんばっていたところは、やはりまちづくりが速い。有名なのは、神戸の真野で、被害も少ないし、復興事業も数はなかったが速い。
吉里吉里は、災害前からまちづくり活動があったような雰囲気もある。地区外仮設住宅でも人が出て行く心配をしなくていいのだろう。防災を回復力という面も入れて考えるなら、地域の災害前の姿が復興後の姿を示しているのは間違いない。
赤浜は?

上條――有志の方ががんばっていたが、進んでいくとその脆さがでてきた。コミュニティがなかった。

山田――吉里吉里はコミュニティが強いので、一度決めたことは覆されない。実感としてある。

――当たり前の結論で面白くないが、災害前の防災まちづくりを頑張っていたところは復興が速い。自治体のモラル・ハザードを考えると、ちょっとは払ってもらったほうがいい。

5.会場全体からの質問

児玉――横浜国立大学と逗子市の事前復興計画では、住民の意思決定ではない事業計画が市街地の生活空間計画に入ってくるだろう。そういう調整を待っていたら、市街地の空白期間が長くなってしまうので、仮設の市街地をつくったらどうかという議論をしている。日本も2年間の仮設住宅ではなくて、長めの仮設市街地となったときに、どれぐらいの期間を考えるか?三浦半島の付け根にある逗子は被害が大きいと想定されている。

――ここで被害を受けるとなると、関東大震災クラスだろうから、100年後を想定すべきであろう。仮設市街地が何年かは難しい。どれだけまちの人がそれに耐えられるかということ。仮設住宅の長寿命化、それを復興への足がかりとして位置づけるのが、よくある議論。それには長く使うべき、となるが、自治体負担もありということになってくる。それをどう考えるかが課題になってきている。まずは1,2年経った位で所得調査をする(直後にやるのはしょうもないが)。それ以降は家賃をとる、という考え方はあり得る。

黒瀬――赤浜の仮設住宅もアップグレードして、災害公営ができたとなれば、悪くはないかも知れない。

石川――緑地計画をやっているので土地利用計画で緑色に塗られた部分が気になるが、そもそも単純に、被災された方々を短期的に救助するという意味で、そういう方便として借り上げをしてしまう、とか、災害危険区域にする、までは良いとしても、では自治体は自分たちの計画として何をやるか。たとえば、公園緑地/津波防災緑地の予定地となっても潤沢な資金もない、事業化の目途もない。今の都市計画制度の中では、未開設公園だけ増える、都市計画における不良資産が殖えている。もともとのロケーションはまちの中心でいいところではある。こういうところの活かし方とは?とりわけ地域の方々の思い等をどうやって汲み取れるか?

――生態学の先生もいて議論していた時に、低地は重要であった。外から水が入って、交配が起こっている。浜を放っておいたらよかったのに、今回防潮堤で閉めてしまった。おそらく元の植生に戻してあげるのが最善であったはず。だけど閉めてしまったから…話は大変。イメージとしては浜に戻すのがいい。そしたら葦が生えて、となる。

石川――陸前高田は大きな松林のところはガッツリ持って行かれたが、その後ろに再生するだろう。
一方で、別の案のところはほとんど削られてしまって干潟に戻そうというのをやっていて、自然にもどして自然の緑地として再生していく、という考えを打ち出していた。

――生態の先生はなかなか言いにくいというのがある、魚の命と人の命とを天秤にかけると…。直後はうちの母ちゃんをうばった海が、という話になってしまう。
吉里吉里などは浜に所有権が残っているようだが面白い、それができるなら、干潟もいけそう。どうせ時間がかかっているなら、ゆっくりと考えたら良い。

石川―― もし所有権が残っているとしたら、逆に地域のコモンズができるかもしれない。

黒瀬――大槌も赤浜も同じ問題をかかえている。

内山――四つの四角が描いてるマネジメントサイクルで、右下がやりにくいと思っている。平常時のプランの左下(被害抑止)と、右下(復旧復興)で、左下は防災に強いまちづくりというイメージで、右下がよくわからなかった。たとえば2年前に話したことだと、被災するまでしか使わないまち、というのを仕分けておくとかもあるのかもしれない。

――左下もだが、右下こそ平常時のまちの有り様。復旧・復興がめざすまちをどういうことにするか、ということが平常に考えておくことが重要。災害が起きたら、もしくは起こる前からあるべきまちを目指して、対策をするということだろう。

内山――復興計画という枠組みでないと、右下が考えないというのではなく。普通の都市マスタープランに復興のことを入れられるということ?

――そうそう。そこに入れられると良い。

内山―― 火災とか水害から、今、住んでいるところをベースで守るとか、これからを考えると広島など、市街地の危ないところからへこますというのは描けるかも知れないが、都市マスだと描きにくい?

――描きにくい。和歌山の場合は都市計画区域でもない。自治体の総合計画は、訳分からない。頼れるとしたら国土利用計画?特に漁村系はわからないので、漁業(漁村計画研究所か)の詳しいところとやる。

黒瀬―― 今住んでいるところを描くと、結局、土地所有者の資産価値を下げることの対立でできなかった。たとえば総合治水も同じ。これから越えていかなくてはならないということか?

――ハザードマップが普通にオープンにされるようになっていて、土地は塩漬け状態なので、壊れるというデータ、すなわちシミュレーションをやると、権限、信頼性などの意味で、ひたすら地域に怒られる。
和歌山だと公共施設は山側で動いているので、そういうところの事前復興はうまくいっているようだ。たとえば山側に市役所が動くと、海側の動いたあとの市役所だったところの話等の議論はうまくいく。
串本は、高速道路の取り付け道路の議論をしている。高台開発をやっているが、ただ死にますよ、だけでは無理で、公共施設を動かす等の具体策をやりながら、ということが重要。

黒瀬――実は、70年代80年代に需要以上にうっかり住宅開発してしまったところが息を吹き返しているという感じもする。

――逆に串本は海側を埋め立ててしまった。海の方はいっぱいいっぱい。田辺市も役所を動かす計画をしているが、なかなか難しいのではないか。

窪田――日常の都市計画の側から防災を取り入れようと考えようとすることがまず重要だというお話があった。しかし日常の都市計画から言わせると、その重要性が共有されにくく、東日本大震災の直後である今でさえ、契機に乏しい。それをどうやったら改善できるのか?という点は考えるべきことだろう。「大事なものを壊してみたら」という牧先生の言葉はその重要なヒントだと思う。
また、防災は手段だとおっしゃっていたが、手段だとするとそれぞれの地域特性に応じて丁寧に考える必要があるだろう。その意味では、どのような手段としての防災があるのかを整理して、日常の都市計画にどこまで反映もしくは融合できるのかが重要だといえるのだろう。
今日は、長時間にわたってどうもありがとうございました。

参考資料
・「復興の防災計画 巨大災害に向けて」牧紀男, 鹿島出版会, 2013
牧紀男(まき・のりお)
1968年生まれ。京都大学防災研究所 社会防災研究部門 教授。