1.はじめにー地域デザイン研究会の意図

(省略)

2.山口敬太さんから講義


▲山口敬太さん

■ 自己紹介

学会発表していなかったので、このような機会を頂いて様々な意見を頂けるのは嬉しい。論文に書いてある内容は既に把握されていると思うので、この研究をした背景など、書いてないことを話したい。
自己紹介としては、土木が専門。1922年に日本初の都市計画講座が京都大学にできた。京大土木の都市計画講座はオペレーションズリサーチへと進んだが、佐々木綱先生が風土を掲げ、そして中村良夫、樋口忠彦といった景観工学の第一人者の先生方が景観を根付かせた。私の師匠は樋口忠彦先生であり、修士のときには景観の価値論とか意味論に関心をもった。それで景観の意味は何かと遡っていったら平安時代までいった。で、近代あたりをみると、 資料もたくさんあって面白くなって風致や公園の研究を進めている。風景の発達史ということにも興味があり、今年度「日本風景史」という本が出る。自分も編集者として関わっているので是非読んで欲しい。
都市計画史としては、渡辺俊一先生や石田頼房先生の本は博士3年位から読み始め、景観研究や鈴木忠義先生の観光計画も学んだ。
問題意識は様々なものがあるが、土木分野のオリジナリティを出したいと考えている。特に土木空間の設計思想に関心があるが、それが実際に都市にどういう価値や意味を与えてきたのか、当時の技術や政治の中で、なぜ地域や景観の個性が生まれて来たのか、事業がなぜ実現したのかというメカニズムを明らかにしなければならないと考えている。それを満足する対象を探してくる感じで研究している。緑地という分野は、都市工的には公園からなかなか出られなかったり、土木側からは事業史から出られなかったり。自分は 関西出身でもあるし、関西に対する愛があるので、それを対象にしたかった。

■ 地域デザイン研究の視座

研究のモチベーションとしては戦前の計画思想については良いものがあるがあまり取り扱われていない。神戸の河川沿緑地もあまり知られていない。土木計画の負の側面として海沿いはひたすら工業地帯にどんどん支配されていくという状況があった。ではなぜ海がそうなったのか、当時、もしかしたらなし 崩し的になってしまったのかも知れない。であるならば、もう一回、既成事実化しているところまで遡ってその要因を明らかにしたい。それで「この空間はこうあるべきだ」ということを言いたい。そのためには、検証して批判をして、新たな提案をしていかなければならない。
近代の都市計画、なかでも災害復興はトップダウンにより行われたといわれるが、単純なトップダウンではないはず。それによって良かったことはないのか、その中でも市民の関与が全くなかったのか、何かあったとしたらどのように関わったのか、特に非常時にどうだったのか、ということも調べたい。
そんなモチベーションでこの研究を進めた。

■ 戦前日本の計画の背景

広幅員街路とか公園道路の形成史としては、街路空間整備や緑地計画の発達、防災と美観の総合化は、戦前まで見て行くと明文化されているし、帝都復興もしくはそれ以前からそういう話は出ているので、体系化して調べていきたい。
歴史的にみていくと、都市計画は事業が進みにくいという問題がある。都市計画決定がなされても事業がすすまない。大きな原因としては財源不足がある。そのような中で、災害復興となると進むということがあるのではないか。失業対策ということでお金が出たりというのもある。
買収等の予算など、予算不足がどのように考えられてそれに対してどう対処したか、平常時非常時の意思決定がどのように空間をつくってきたのか、どのような影響があったかという点も重要。

■ 神戸の河川沿い緑地(写真や図を用いて説明)

川のすぐ近くまでもともと家が迫っているのがわかる。昭和大水害では、川を水と土と石が一体となって流れてきた。非常にエネルギーが大きい。何でこのような山津波になったかといえば、六甲山が禿げ山で非常に脆い花崗岩質で、崩れやすい。ドライブウェイを作るためにも伐採された。植林はしようとしていたが、森になるまえに山津波がきた。
小さい川がいくつもあるが、平常時はあまり水が流れていないけれども災害時は多くの家を流してしまった。死者600人程の大きな水害となった。上流のほうだけではなく、下流のほうまでずっと土石流が発生して影響が出た。これだけの被害になると川の断面だけいじってもしょうがない。被害状況図によれば土石流の幅は100m程度だった。復興計画の規模とも関連するだろう。戦前の復興計画は基本的には河川断面で防ぐ。河川沿いの道路は管理道路という扱いだった。それが戦災でかなりやられた。川をまたいで焼失していることがよくわかる。余談だが阪神で焼けた新長田は戦災で焼けなかったということも分かる。
神戸市のかなり広い地域が全焼した。となると区画整理するのが普通といえば普通。被害との関係でみる必要がある。
戦災の復興計画の中で都市計画決定されたのが、公園道路。川の合流部には公園を設置。水害復興計画の段階で既に計画決定されていたが予算の関係もあって実現していなかったものが多い。川じゃないところにも帯状の緑地をつくる計画が進められた。

区画整理で進めていくが、須磨地区では1947年に事業決定で完治完了したのは1996年、長田地区では1947年に事業決定で1987年完成、等の例が示すように50年ほども掛かっている。50年間守ったのもそれはそれで凄い。市長等の意向も強い。まんべんなく公園を作るのではなく、河川沿いに緑地を集約している。
神戸は復興区画整理に積極的で、東京はそうでなかった。神戸の方がむしろ面積が大きくなっているくらいだ。
夙川公園は水害前に完成している、昭和12年に都市計画街路決定されたが、公園である。川沿いに歩行者専用道路を設けたりしているが、兵庫県の技師が関わったが、西宮の被害は少なかった。河川沿緑地も有効だったということは推測されるが、実証する資料が見つかっていない。
妙法寺川公園は今は防災公園に指定されている。川の合流部を中心に公園がいくつかできている。新湊川、宇治川公園、生田川公園など。一部は戦後の交通用道路用地が必要になり、高速道路のインフラ用地として使われた。高速道路建設史としてみても水害による公園事業は重要である。灘では、帯状緑地に様々な施設を配置したり、空地をつかって防火帯を作っている。阪神大震災以降のまちづくりでも緑地は積極的に活用されている。防災の拠点も それを活かして設定されていった。神戸市復興計画参照。防災中枢地点(地図上プロット)は川の合流点。震災後も緑地の整備は行われていて、帯状緑地も評価軸として設定されている。
1982年策定の神戸市都市景観条例の見直しの機会に自分も参加した。山と海の間に軸を作っていた河川緑地軸を眺望景観軸として大事にしていく、ということをやった。単なる公園ではなく景観の骨格を作っているということが大事で、それを景観施策上も重視している。
戦災復興の公園道路100mの幅員は保健防災を目的としつつも、一方で都市美も視野に入れている。これが、いつどのような形で出て来たのかということについては今まで一切明らかになっていた無かったので、それを今回の研究においては明らかにした。

■ 戦前の神戸市都市計画

阪神大水害以前の街路計画は1927年に都市計画決定されたが、川沿いには街路があまり設置されていなかった。当時水害以外は河川沿いに道路 を作ろうということはなく、密集している中で街路を作ろうと思ったら用地買収をせねばならず、予算は基本的には東西の街路のみに使われた。
公園を作るにしても密集しているから新たに用地買収する必要があるため難しい。それでも内務省からは公園造成の指示があるが基準を満たせない。山を公園にしていった。都市の中に公園がないのは問題だったので、生田川の上に蓋をして暗渠化して公園にしていく。論文130ページに書いてあるとおり、昭和7年に完成した歩道は完全に暗渠化されていてそのうえに植樹等も含めて歩道が作られている。
(断面図の説明)河川断面の点線がもともとの河川。戦災以前は、暗渠化して道路を作る計画にすぎなかった。戦前は河川堤防すら計画がなかった。
いくつか復興計画の知恵や過程を記したが、示したかったことは、誰によってこの計画の原案が作られたかである。内務省の技師か兵庫県の水害担当の専門委員会と神戸市の復興委員会が関わっている。
基本的には、砂防の神様・赤木正雄や宮本武之助など、土木の人間にとっては非常に有名な人ですがが、内務省の技師が治山や河川、都市計画などの原案をつくったが、兵庫県の専門委員会は基本的にそれを踏襲し、たたき台を作って神戸市へ投げる。神戸市復興委員会は自分たちで一から立案するのではなくて、答申という形をとった。
専門委員会、内務省の技術者の案では、河川については川沿いに3-5mあれば十分であるしお金もない、と判断していた。しかし、商工会議所の会頭をはじめ、少なくとも11-20mほどの幅員の街路を作ることを地元がもとめた。

■ 古宇田とは誰か

古宇田は大変個性豊かで押しが強かった。市長は、復興委員会の委員長で、県の専門委員会の案を推す。これで何とか進めたいとしたが、古宇田は100mは絶対必要だと強く主張し、一部の神戸市側の地元の人がその案にのっかっていく。だが、補助金が得られないということで、取り上げられなかった。河川空間をどうするかという議論は白熱した。
研究上の問題としては、『神戸市水害誌』という本があるが、そこに古宇田らの意見については記述されていない。決定した事業者の視点からしか書かれていないので、そこに 至るまでの葛藤は議事録を読まないとわからない。議事録を読んではじめて知った。古宇田達の緑地を作りたいというアイディアは、神戸市復興委員会の答申案の中で希望事項として取り扱われる。なので全く無視されたというわけではなかった。
古宇田がなぜそんなことを考えたか。明治35年東京帝都大学を卒業、辰野金吾の教え子。近代建築もやっている。大学では築庭学を修めた。東京芸大で教えていた。

著述をみると、建築と庭園及び都市と公園の関係に関心があったことが分かる。イタリア等の事例を見て、ヴィラの庭園と建築の関係を読み取っていったり、ドイツの公園内の 庭園などの欧米の近代都市デザインを目のあたりにしてきた。自然式風景庭園などをみてきた。面白いのは、たとえば道と動きによる景色の変化を示した研究や、法面の景観設計などをしている。
昭和8年の仕事だがユニークな試み。後にわれわれ、土木景観の人間がやることを先取りしていた。これを全然知らなかったので衝撃を受けた。こういう蓄積があって、神戸の河川沿い緑地への提案をしているということは留意されたい。
水害復興の目的は緑化の美を実現したいということで、パリ、ロンドン等の緑地の美がある都市をつくることが近代都市計画だった。彼が亡くなった1965年、高山英華が弔辞を読んだ。

■ 戦災復興

戦災復興院が造った戦災時復興計画基本法があったが、神戸市の復興計画要綱は復興マスタープランと読めるもの。古宇田は市の復興委員会の中で、第一部会総合企画の部会長となった。水害復興計画の際には取り入れてもらえなかった河川沿緑地のアイディアを盛り込んだ。 ただ、県はそのような大きな計画はダメだといい、市は何とか進めたいと考えて、戦災復興院に持って行ったところ、市の案のほうがいいと評価され、実現した。
昭和21年6月の六大都市検討者会議で復興計画について話し合った際、土地区画整理に対して名古屋、神戸が積極姿勢を見せた。復興協議会を開催して区画整理の土地所有者の意見を聴いた。家をとりあえず建ててもよいが将来は撤去すること、ということで家を建てさせた。実際のところ水害→戦災→阪神大震災を経てこの公園緑地が形成されてきており、非常にドラスティックに変わっていて面白い。

■ 戦後の水害と阪神大震災の様子

昭和36年とか昭和42年なども六甲山の緑がそこまで育っていなかったということもあるかと思うが昭和42年、宇治川の被害がひどかった。都市計画の指定を排除し、川沿いに家が密集した状態にしてしまっていたところが水害を受け、問題になった。
震災以後の河川沿緑地の使われ方としては、たとえば生田川沿いではテントが出来て、炊き出しなどが行われている。(造園学会の地図において説明)避難・救援のために使われるオープンスペース。
妙法寺川沿いなどでは仮設住宅が作られた。

3.ディスカッサントによる解題

中島伸(都市デザイン研究室特任助教)
中島健太郎(都市デザイン研究室修士一年)
益邑明伸(地域デザイン研究室修士一年)
柄澤薫冬(地域デザイン研究室修士一年)

■ 中島伸

論文に出てこなかった話も聴けて勉強になった。また、同世代の都市計画史を研究している研究者として、見方に共感するところ多かった。
都市計画史の地方事例の充実をやっていくべきだと僕も思っている。今はまだ石田頼房先生の通史研究がベースにあり、インデックスとしての画期研究をフォローしつつ、そこで書かれていない史実の充実を図っている状況にあると言える。
火災復興史は、建築ベースから見た都市計画史の蓄積といえるが、水害復興史は、東日本大震災でもさらに増えた通り、まだ増えつつあり、土木史から捉えることが重要な歴史研究のテーマと感じた。今後、自分の建築ベースのから水害復興史にどのようなアプローチしていくべきか考えさせられた。
今日話して頂いた内容で、100mの被害が出たということが発想の元となっていたと思われるが、その感覚は火災復興となると、なかなか見えてこない。感覚から空間へ落ちていって計画を作る視点は復興計画の立案点になり得る。体験として水害は想定しえるが、火災復興はそうではない。


▲中島伸さん(右から2番目)の解題に答える山口さん

最初に用意していたコメントは論文の中で書かれていた歴史研究の中における「連続性」をどのように扱うべきか、という点について議論したい。史実を明らかにすることのみならず、それにどういう意味があったのかを記述しないと、事実発見の探検隊で終わってしまう。歴史研究における時間の考察とは、一つは連続している中で大きな断絶・変化を発見すること。もう一つは一見すると連続していないが、連続していることを明らかにすることにあるだろう。そもそも、水害復興と戦災復興は全然違うと思う。それの間の連続性を見つけたという点が興味深い。
これをどのように発見したかということについてありえるのは、古宇田という人物=計画者の意志の連続性がどれだけ落ちたかということへの着目、一方、空間は当然同じなので、人が変わっても連続性が保たれるという視点もあり得る。
一貫した意思がないと、古宇田の人間性がわからないと解けない。なかなか突っ込みにくい不部分があったことは、論文というよりは今日の講義の中で理解できた。
大きな意味で戦災復興がどういう時点だったのかを見てみると、全国で多数の都市が一斉に近代化を進められたのは日本の歴史の中でここだけだった。その 意味では大きな変曲点だった。
一方それぞれの都市で事情は違っていたため、それぞれ追う必要がある。
戦災復興において、戦前と戦後をわける意味はそこにあるのではないか。
誰が復興の担い手であったのかということを明らかにすることが今後重要だ。
古宇田が、神戸が焼け野原になったところでこれが契機だと言ったとのことで、本当にそのような発言があったのかということは確認したい。
戦災復興は契機性を見つけた人にこそうまくできる。まだ研究できていないが、それがはっきり出ているのは広島と長崎の戦災復興の差だ。広島では完全に破壊されてしまった。長崎では原爆が落ちたのは浦賀の方で、中心市街地ではなかったので、戦災復興ということは起きなかった。その問題をもう少し引っ張ってくると、キリシタンの問題のかなり繊細なコンテクストを引きずってきていることが見える。誰が復興の計画者であったのかということを見ないと問題の分析が難しくなってくる。
東日本大震災でも結局誰が復興しようとしているのかという主体論の研究も重要だろうが、そこから手をつけるか難しい。

山口――古宇田についてはまた次の機会に掘り下げようかと思っている。
中島さんが言っていた復興計画の主体について。内務省の都市計画地方委員会や満州に行ったりするなかで、せっかく立案してもまたどこかへ出向してしまう。計画案のそもそものコンセプトは実際誰がやったのか、技師なのか、その背景の思いは地元のものかもしれない。が、明らかになっていないので、そのあたりはしっかり論じる必要があると思う。
神戸の話でも水害からの連続性ということが研究のテーマになったが、当初はそれを目的とした訳ではなかった。河川断面の変化に着目していた。。議事録を読んで初めて古宇田を知り、主体の連続性だということに気づいた。
何かしらの理念の継承が必要ではないか。計画の内容が変わっていても、理念が継承されている場合は、いい。では何が変わったのか、本質的な変更なのかどうかを知りたい。そもそも地域の理念の独自性が戦前にいかにあったか。
もう一点だけ話したかったのは、川が等間隔であること。計画者側としてはこれがよかったと思う。戦災復興委員では緑地の配置を考慮するよう指示が出たが、河川沿緑地を作ることで等間隔に達成できた。これはラッキーだったかなと思う。

■ 中島健太郎 「神戸における緑地計画の連続性」

土木計画学会の公共政策デザインコンペでの提案、復興デザインスタジオで、住宅供給政策のレビューを行うなど、個人的に神戸との関わりが多い。地形が頭に入っているため、山口先生の発表を面白く聞かせていただいた。


▲中島健太郎さんの解題に答える山口さん

(1)河川の土木事業と水害復興・戦災復興の連続性
神戸の都市形成史において河川の付け替えが興味深い。
江戸~明治:中心は西側にあり、中心市街地のそばに河川が流れている状態だった。そこから市域が北、東西方向へ拡大していくにしたがって、水害の対応もあり川が付け替えられた。大丸という大きなデパートが元町のほうに移ったり、国鉄の三ノ宮駅が移設されて現在の場所になった。また、高架下の商店街の形成により重心が東へ移動した。山の方を切り開いてニュータウンを作り、その土砂で埋め立てを行い、ポートアイランドなどの新しい住宅地を造成。その後、1995年に阪神大震災が起きた。
生田川から新湊川への付け替えについて。東側へ付け替えられた1902年の地図をみると、1901年に湊川の付け替えが終わっている。その結果、1924年には市域が広まっていることが見て取れる。現在は河川緑地が付け加えられている。
水害復興と戦災復興について古宇田に着目しながら述べた山口さんの論文だが、河川の付け替え、鯉川や宇治川の暗渠化とも関係があるのではないか、と考えた。先ほどの話だと河川が等間隔であったこととも関係ありそう。
復興の連続性について、先ほどの中島伸さんの話でスッキリした部分があるが、分からない部分がある。つまり、河川の付け替えは大きな出来事で、それがあったことで河川緑地が整備しやすくなったというような背景があったのではないかと考えた。河川沿緑地計画において、河川の付け替えのような土木事業との連続性はあるのか?

山口――湊川を付け替えたときに、両岸の都市は川にぴったりくっついているので、普通の川のように付け替えが緑地を作るのに有利になったとは考えていない。生田川に関しては、確かに100mとりやすかったというのはある。
僕が思っている連続性は、湊川を埋めてオープンスペースにするにあたり、天井川になってて危ないから付け替えたというのがあり、北側にもトンネルが付けられた。
運河の掘削を地元の人間にさせて、その代わり川を埋めた土地のいくつかをあげる、というやり方でやった。このやり方によって、神戸市はお金を使わずできた。神戸の政治家はそうした都市経営がとてもうまい。戦後も土地を埋め立ててそこで儲けた。株 式会社神戸の源流とよべるようなところがあったのではないか。

(2)多層的な古宇田氏の緑地計画思想
50-100mの遊歩道を設けて放水・防空などの非常時の活用だけでなく、平常時の衛生、娯楽、美観も機能付けされていた。緑地に多様な意味づけを与えた計画をしていることが特徴的=多層的と呼んでいる。
古宇田の河川沿いの遊歩園設置の主張は、日本においては新規的だったのではないか。緑地を街路でつないでいくというようなパークシステムは欧米にあったが、緑地を、多様な機能を持ったものとしてとらえ始めた欧米の考え方を導入した点では古宇田の河川沿い緑地の意義は大きかったのではないか。
日本の緑地思想に与えた影響をお聞きしたい。
また、河川沿緑地の断面図で、堤防がないことに違和感がある。もう一つの違和感としては、多少水があふれても、生田川公園が河川側にあればそこにあふれる形になり、直感的には理解しやすいが、戦災復興でこのような形になっているのはどういう意味があるのか聞きたい。

山口――防災上の観点から、欧米の都市美の考え方は当時の時代背景としてはすでにちょくちょく導入されていた。
古宇田は関東大震災の時に関東にいたようで、様々なショックを受けたためか、防空に対する恐怖が非常に強い。言葉にするのは難しいが、何とかしなければ ならないと思ったと思う。そこに彼の特異性があった。100mにしないといけないという彼自身の強い思いがあった。最後まで主張したのは実体験として恐怖を持っ ているためであったと思う。河川-緑地の断面、断面が三面張りになっているのは計画の時間が違うから。まずは急を要する河川断面が出来てから、その後に時間をかけて区画整理を通じて緑地をつくっていった。
ただ景観・デザインという観点では現状のままでは不十分と考えている。長い時間をかけてできてきたことは大いに評価したい。この後、どういう断面をつくっていくか、今こそ、再整備のあり方を考えればよいと思っている。

中島健太郎―――生態系ということを重視しようということが出て来たのは戦後だと思うが、この時点ではそういう話があったのか。

山口――全然ない。

■ 益邑明伸

阪神淡路大震災時、川が塞がったことによって生活用水として賄われた。公園は避難所になった。消火用水や生活用水として水が使われた。また、河川敷で自衛隊が野営をしたりがれき置き場となったりした。
その後の復興計画では、神戸市では水と緑のネットワーク整備が掲げられている。河川緑地軸、街路緑地軸、山麓緑地軸、臨海緑地軸などからなる水と緑のネットワークを格子状に組み合わせて配置してある。平常時は憩いの空間、災害時には地点をつないでいく拠点として使用できる。河川緑地軸は、延焼遮断機能など防災機能の充実。古宇田の発言にあらわれている、市街地の分割の思想がいまも受け継がれている。
三面張りの形になっていたので、生活用水として使おうと思っても水面まで下りることができず使えなかった。水面まで行ける階段上の護岸を作ったりすること等が提案されている。
一方、兵庫県でも整備方針が出されている。県は公園を実際に整備する。住吉川では場所によっては、水面まで下りられていたが限られていた。
災害時の利水は、ここまで水害を経験してきた都市としてはあまり考えられてなかった。災害時何を最大のターゲットとしていくかについて、副産物を得るために考えることがあったのではないか。


▲益邑と山口さん

山口――住吉川の断面がなぜあのような形になったのか、という点だが、こんな断面になったのは、川岸をダンプが 通れるようにしたため。最上流のニュータウンの土砂を削り、ダンプに積んで下流の六甲アイランドの建設に使う、という土砂運搬道路として利用した。土木開発の 施工のための利用。橋の下はダンプのために低水域にしたため、水面が近くて人が通れる空間になった。もともとコンクリートだけの素っ気ない感じだったが、阪神大震災以降、石畳などが整備された。

■ 柄澤薫冬

これまでは河川と土地のつながりを見てきたが、景観や緑地の話題をとりあげたい。
20年経った阪神淡路大震災のリデザインを復興デザインスタジオで行った。緑地の思想と防災の思想両方があってこそ成り立つと考えた。災害の復興過程において、狭い地域で実験的に土地を回していくことにより、復興を進めようとする計画立案を行った。復興で作られても日常的に利用されるものにはどのようなものがあるか?
古宇田が100m幅の河川沿い緑地を作ったということについての山口さんの見解は?
山口さんの論文を読んだときに、景観やベルクの話など、より身体的な視点だったように感じた。その思想と防災はどう関わってくるのか。
景観形成を行っていく際、一つの明確な理由として防災があるのか、計画を実際に行っていくときに住民に働きかけるための手法としてあるのか?
100mの緑地を作ってしまうと、そこはグランドレベルでは土で、多様性を求めているにも関わらず単調になってしまっている。100mという大きな範囲を扱ってしまうと出来ることが限られてしまい、デザインとして詰めることができなくなってしまうのではないか。


▲柄澤と山口さん

山口――緑地と防災については、研究のスタンスとしては、どういう形になっていったのかの両方の観点から対象地を決めていくが、実際の計画では、必要だから作らな いといけない、ではそこの場所はどういう場所で、どのように作っていかなければならないか、と考える。事業自体の持っている目的が単一であることが多く、 より総合的な視点を組み込むよう提案する必要も出てくる。
そもそも景観デザインの提案は総合的視点が求められており、近年はそういう風潮になっている。
公園は虫食い状、もしくは幕の内弁当風に作られていって、計画としては連続性がなくなることも多い。どういう計画、管理の仕組みが必要か、についての再整理が必要だろう。
生きているうちにいろいろ関われたらいいなと思っている。

柄澤――古宇田思想としては、古宇田の思想を引き継ぐことが重要だということか。

山口――盲目的に思想を引き継いだら宗教になってしまうが、しっかり検証した上で、現代的意義があればしっかりと引き継ぐ。それが大事だと考えている。

柄澤――古宇田自身は、100mの緑地を作る予算をもう少し削減し、市域内の公園整備へ充てた方が良いということは考えたのか?古宇田が100m作ったことについてどう思ったか?

山口――8年前に水害があった。水害の怖さが認知されていたので、公園をどうせ作るなら河川沿いに作ろう、という流れがあったのでは。計画としてはとても良い計画。
ただし、出来たところと出来てないところがある、区画整理の範囲によってどれくらい達成されているかも違う。

柄澤――そう考えると、古宇田の作った空間はランドスケープの観点ではあまり良くないかもしれないが、計画上は優れたものだった。

山口――古宇田が最終的にデザインしたわけではないが、河川沿いにオープンスペースをつくるという判断はよかったと思う。デザインは実現した今、再整備の際に考えればよいと思う。

柄澤――水害があった時つくったということだが、水害がなかった時にはまた別の何かしらの根拠づけがあったのだろうか。たとえば人間の認識の視点から理論構築され、発想の起点に日常の機能から解いて、それが結果的に災害に役立つ、というような話もありそう。

山口――景観デザイン思想が都市の計画を牽引していくことができるかというと、現在の日本においてはなかなか難しく、そこだけで闘うのはだめ。いろいろな課題と景観を合わせて、どう総合的に考えてデザインするか。外へ出ていかないといけない。

4.会場全体の討議

児玉千絵(都市デザイン研究室D1)――戦後も水害があり、同じような被害を受けていた際は、河川沿い緑地を設けてほしいとか、まったく被害が出なかったためやっぱり帯状の緑地を作って良かったとか、長期的な計画のタイムラグを埋めるような再評価があったか。

山口――市民側の反応は把握できておらず申し訳ないが、当時の復興委員会をとりまとめていた助役の原口は、その後市長になる。20年間の原口市 政の始まり。戦災復興策定時の区画整理の六大都市会議にも出ていた区画整理課長の宮崎が、原口のあとその後20年市長を務めた。40年間、土木系の市長。その主体の連続性が効いている。その人たち は、自負として、整備していて良かった、という評価をしている。

児玉――長引いた結果、元来計画されていた、多様性に考慮した階段上の護岸などへ回帰することが遅れたという評価もあるのではないか。

山口――住吉川など、生態系に応じて改変してはいるが、将来50年以内にできればいいんじゃないか、というようなタイムスパンで考えている。

薬袋奈美子(日本女子大学)――神戸の場合は水系が短いが、そういうところで特徴づけられることは何か。

山口――平常時の水量が少ない。流域が狭いから。コンクリート三面張りだと特にだめで、断面はもっとお椀でないといけない。豪雨になったときはすぐに増えるし、減るときは急激に減る。そこをデザインに組み入れるべきだがまだなかなかできていない。

薬袋――古宇田が長く関わったことで、ある程度コントロールできたということは、他の自治体でもありえるのか、とても特殊なのか。

山口――緑地の整備という観点では、首長に恵まれた。意思の連続性が大事であるから。
他の地域はどうなんでしょうか。たとえば大阪だと、同じように緑地を調べると、戦前、戦後、震災復興で全部バラバラで、今は戦災復興のときの公園を廃止 する動きがあり、さらに危うくなっている。トップが変わっても方向性が変わらず、 市民が、一貫性のある考えをもてるようにすることが大事。
昔は都市計画展覧会があったが最近はない。もっと一般市民に開かれるべき。

芝原貴史(羽藤研究室M1)――都市経営の連続性について指摘されていたが、専門家との共同で作っていくことはわかるが、小さな自治体では市の担当者が変わることもあるが、どういったレベルに於ける、連続性なのか。

山口――今は技術者の個人レベルで決まってしまうが、先ほどの大きな事業の意思決定は、議会などの大きな場所で形成されている。だからこそ、担当者の判断だけで決まるものではなく、様々な市民のセンス、視点が入り込んでくる。
当時の技術者は、終身専門技術者。そういう意味では今より昔のほうが連続性があった。それに加え、地元側からもいろんな考え方をもんで何かしらできたのでは。

中島伸――政治経営系がグダグダになってしまっていることについて問題意識をお話いただいたが、併せて、景観も技術者サイドがだいぶナイーブになっていて、そこがつながっていかないのではないか。

A――個人的な思想性やあったり景観性は、芸術などの属人的ものからは分析しやすいが、インフラは、必ずしも属人的なものとはいえず、組織的に取り組んだり、計画者と実務家が組んでいたりで意思決定プロセスが複雑だったりして、誰の意志がどうはたらいたがみえにくいのではないか。たまたま議事録から追えたとはいえ、どうしても行政の決済については永年で保存されていても、打ち合わせの記録等をたどっていくことによってみえてくる意志の継続はなかなか永遠保存にはならず、消えて行ってしまう。一次資料を追うことで見えてくるものは、研究においては難しさがあるのではないか。

山口――高度成長期以降については、直接ヒアリングすることが出来るのでするしかない。戦前戦後は新聞も(もちろん立場があるが)詳細に報道しているので使える。逆に新聞が詳細を報じなくなってきてからは、どう調査すればよいかは難しい。

中島伸――長引いていると資料が追えるか。換地処分が99年というのは全国的にも遅い。研究側から見れば、そういう事例をターゲットにしていくという見方もある。長引いているところは、生きた資料として残っているので対象とすることが出来る。

山口――戦災復興関係の資料は兵庫県庁と公文書をみた。神戸は戦災復興の事業史すらもまだできていない。

中島伸――公文書保存の問題は大きい。東日本大震災の時に一番参照すべきデータとして昭和三陸津波のデータを掘っている途中、こういうデータがないと後で追えないんだ、と実感した。そういうことをどんどん提言していくべきかもしれない。

A――河川沿いの緑道ということでスポーツ施設が出来たりするなど、わかりやすい形態があれば良いが、そうではなく都市計画が見直され他の部署が乗ってくると、当初の意図が見えなくなっていくが、それは止むを得ないのか。

山口――そこを担保するのが研究者の役割か。たとえば緑地の担当を、河川から公園に移したときに、立場が弱いから、道路を作る上で必要と言われたら出ざるをえない。
ただうまくデザインすれば空間は生きる。そうしたデザインの幅をもっと広げていくことが重要。また、研究者だけでなく地元のNPOが、変わる担当者のつなぎ役として、連続性を担保する主体になっていくことも重要。
担当者がいかに悩み、工夫をして、ものをつくってきたか、というのも引き継がれ難い。そういう発掘にもどうにか汲み取りたい。

窪田亜矢(地域デザイン研究室特任教授)――今回の山口さんの論文は、形成の過程・背景を市民と共有することが大事だ、という考えが強く打ち出されていて、非常に印象深い。一方で、出来上がった空間の質の評価ということも別途必要であるということをずっと考えていた。
まずはやってみて、少しずつ良くなっていけばいいじゃないか、という楽観的な考え方は非常に示唆に飛んでいて豊かだと思う。現場で苦労してるとき、こうやればいい、というのがわかっていてもそうならないのが苦しいところで、だったらちょっとずつでも改善していこう、と思うこと、思い続けられることが現場の根幹にあれば良い。なぜなら今回の論文のキーワードである連続性という状況になるからだ。しかし、そうなるためには、どうすればよいのだろうか。言い換えれば、出来上がったものを少しずつ良くしていくのだという状況は、どこかの時点では「始まる」すなわち「起源性」を持つはずだが、それが「連続性」に変化していくメカニズムが重要だと思う。どうすれば「起源性」を生じさせ得るのか。

山口――運動論的になるが、公園であったりを学生が設計して、それを市の担当者に見せるなども考えられるのではないか。運動を積み重ね、どこかで飛び火することを期待してやり続けるしかないかな。

窪田――何かが生じて契機になって、良きものが生み出される点については納得する。しかし、日常的に負の状況が蓄積していっているような状況から改善すべきときもあると思われる。日常的に潜む負の状況が災害として実現してしまってからでは、取り組んでも遅い。
歴史研究の事例の中で、実際何かがあった時に、良くしていこうとするメカニズムはあるか。

山口――神戸の人たちが今の状態を見て、資源を決めていっているということだと思うが、最初の状態から今まで、どうだったかということを常に評価し続けることは必要、評論などの雑誌で言い続けることが大事ということはある。
研究について言えば、建設できなかった理由を明らかにするのは研究上のモチベーションを保つのが難しく、研究自体が空中戦になってしまうが、その作業も場合によっては必要。
思想が捉えにくいと、読んでもらったとき、なぜ研究をしているのかと思われるのかなという怖さはある。

中島伸――計画というのはアウトプットのことか。

山口――アウトプットというのは、計画の段階にもよるが、都市計画決定がなされたというのであれば意思決定の過程を踏んでいるので歴史的なものとして位置付けられるとは思う。構想程度では、歴史的に位置付けるのは難しいのでは。

中島伸――そのようなことがあるからこそ、計画史ということについて意味があると思っている。人類の考えを明確化するという意味では、思想のアウトプットである計画をまとめることに意味はあると思う。

山口――そこに、計画史的な固有性を持っている計画であればそれでいいが、全国的にやるとしたら結構似たような計画思 想で並んでしまうと、評価しづらくなってしまう。地域性が出てないと研究としてつらい。その辺は葛藤がある。また、計画は面白いがあまり実現していないと、取り上げづらい。ただそれ でも、たとえば大阪の公園道路計画については、ネットワーク性を重視し、かつ計画者の思想もユニークであるため、研究している。
特に、アンチ東京的な思想の人物を取り上げたい。学んでいるのは東京かもしれないが、それを地元に対してどのように適応するかという観点で、彼らの読み取りが結構面白い。
方法論がない限りただの評論になってしまう。歴史研究としてやるのであれば、それなりの方法論を持ってやらないとダメかな、と僕は思う。
都市計画史自体が、まだあまり研究されていない。特に地方都市。関西に関してそれは自分のミッションだと捉え、頑張っていきたい。

窪田――平山洋介先生は、「危機は契機なのか」という問いを立てていらっしゃる。一方で、山口さんのお話からは、危機を契機として捉えてきた神戸の様々な関係者が、楽観的な明るさと強さに満ちていて、そのような状態が大切であることも学べた。今日は本当にどうもありがとうございました。

5.第一回地域デザイン研究会を終えて

山口敬太さんは、未来のために過去をみていらっしゃる。ひとつの真実を明らかにするために対象によって研究のやり方は変わるとおっしゃった。
今回の論文のテーマでもあった「連続性」は、花崗岩の六甲山系から短い急流河川が等間隔で並んでいて、古くから経済的に重要な地域であり続けた、神戸におけるそれであった。様々な地域での「連続性」とは何か、変容や断絶はどうして起きるのか、特に、1995年阪神淡路大震災の前後は抑えておく必要がある。都賀川の増水によって五人が亡くなった被害が起きたのは2008年である。河川沿い緑地という空間の質を、日常生活への貢献と非常時の対応という両極から評価せねばならないのだろう。
多様なリサーチ・クエスチョンのあり方をご提示いただいた。

参考資料
・「神戸市河川沿緑地の形成とその構想の起源 -古宇田實の水害復興構想とその戦災復興への影響-」
山口敬太,西野康弘:都市計画論文集 Vol.49, No.1, pp.128-139, 2014
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/186432
補足資料
・阪神大水害記録フィルム
http://club.kobe-np.co.jp/mint/page/hansindaisuigai20090704.html
・神戸市復興計画(1995)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/4-328/index.html
のうち、特に、防災緑地軸と防災拠点の構成、河川緑地軸の整備
山口敬太(やまぐち・けいた)
1980年生まれ。京都大学大学院 工学研究科 社会基盤工学専攻 景観設計学分野 Urban & Landscape Design Lab. 助教。
http://lepl.uee.kyoto-u.ac.jp/yama.html
http://yamaguchikeita.wordpress.com/